酌婦と酔醒
朝とも夕方ともつかぬ光に、瞬きで挨拶をする。
又、来たのかね。などと、曙光に嫌味を言いたくもなる、頭がずきん、ずきんと痛む。
アスピリンがあったかな、と暫く蒲団の中でもぞもぞする。薬棚を見に行けば、すぐに答えが判ること位、分からなくなる程は耄碌していない自負があった。
冷凍室の野菜のように、縮こまった身体をぐう、と伸ばし、毛布を剥いで薬棚のあるキッチンまで来た。
アスピリンは、一錠丈け有った。一錠しか無かった。
飲んで了うと明日の休日に買いに薬屋か、と思うが、背に腹、頭痛には代えられまい。
シートからぱちん、と一錠出すと、コップに乱雑に水を注いで飲んだ。
この頃は、酒とのお附き合いが多いのだ。そのせいで、毎朝。
いいや、その泣き言は職業選択の自由が一応ある以上、余りに自業自得といえて了う。
撰んで了った。そう言って稚児の様に泣き出して総てお終いにし度い慾が、時折不定形のばけものの様に、わが身に覆いかぶさる。
ネオンライトが靄の中でとぼけて、景色が泣いている夜。
街へ。
「おはよう御座います。」
こんな時しらずの挨拶にも、すっかり慣れて了った。
「おはよう。」
そう此方へ返すのは、このキャバレー・クラブの長、みず紀さんで或る。
歳のころは四十がらみといった所であるが、こういう商売特有の、しわがれ声は持ち併せず、いつも凜として、所謂「かたぎ」の様相を呈している。
私はこのみず紀さんに恩義があって、此方に籍を置かせて頂いているのだ。
床に埃が無いように箒をかけ、革張りの椅子をクリーナーで拭く。
すっかりルーチンワークとなった仕事が終わると、みず紀さんはいつものやうに、
「ミンちゃん、お疲れ様。煙草吸ってきなさい。」
と、ボトルに安酒を注ぎながら、言うのであった。
ミンちゃん、と言うのはみず紀さんが附けて呉れた綽名で、私は本当の名前よりずっと、こうして呼ばれる方が心地が良かった。
店の外に出て、まだ行き交うサラリーの人を遠くに見乍ら、煙草に火を点けた。
煙とため息が、一緒くたになって口から出て行く。
肺にしっかりと毒を詰め込む、しっかりと。別に死に度い訳ではないけれど、ずっと此の商売で生きていけないこと位、分かっているのだ。
もう、譜通、通俗の倖せなんかには、手を伸ばす気も起こらない。
今は只、此の煙の味の様に、同じ生活が、毎日が、刺戟の中で静かなる揺らぎを繰り返して、いつかは立ち上って消えて行かれればそれで良いのだ。
それで、良いのだ。
煙草を私に教えた奴の顔をふと、思い出して、急いで煙草を捨て、踏みつぶした。
「ミンちゃん、ちょっと。」
ガラン、と扉の音とともにみず紀さんの声がして、流石だな。と感心する計りであった。人が哀愁に足を踏み入れるタイミングを、みず紀さんは靈感めいたもので察知するのだ。
それが、きっとこの人が社会の渡り方として身に着けた、所謂処世術めいたものであることは明白であった。
灰皿、グラス、焼酎の準備が終わると、いつも暇になった。
街灯が少しずつ灯りはじめ、お天道様は知らんぷりをし始めた。
こういう時、私とみず紀さんがするのは、サイコロ博奕であった。偽物の博奕なのだけれど、本意気で、という制限だけで、金なんて無くても人は愉しめるものよ、と言ったみず紀さんに騙された積もりが、ここまでダラダラと続いている。
「私、ミンちゃんとだったら、どこでもやっていける気がする。」
「いやですね、こんな小間使い一人でどうやって…。」
いつもの冗談だと流し乍ら、手の内のサイコロは震えていた。
何に震える。我が手よ。
暫くして、このクラブの従業員がぽつ、ぽつとやってきた。
今日の出勤は、三人。優希さんと、未来さんと、ユリカ。
小さな店には、其れ丈け居れば、十分なのだ。増して、もう大繁盛はこの街では出来ないことを、少なくとも私とみず紀さんは知っていた。
時間より少し早く来たのは、優希さんで或った。
「おはようございます。」ときちんと挨拶ができるのは、彼女が元々勤め人であった何よりの証左たりえるだらふ。
「おはよ、」とみず紀さんは小さく言って、今日の客の予定やら仔細を話し始めた。
優希さんはこちらに気附くと、小さく目礼をした。私も返した。
私は、優希さんに劣等感を感じて居た。
嫉妬なのだろうか。優希さんは大學を出て、○○歳(都合により伏字)までしっかりと、会社勤めをしていた。エリイトなのだ。そうして、そういう空気をおくびにも出さない。鼻にかけることもしない。穏やかで、包容力がある。
子供の時分に読んだ児童文學の、ヒロインの現代版なのだ。
此の人のお蔭で、店が傾かないのは疑うところが無かった。
ガララン。また一人、出勤してきた。
眠そうな顔で、あくびなんかして。
「みず紀さん、聞いてよ。昨日の客アフターアフター、って本当しつこいの。」
未来さんだ。未来さんはよく喋る。口と腦がきっと一本の管で直截繋がっているのだ、と一度皮肉めいたことを言ったら、気に入ったらしく、来る客来る客にすぐその話をする。
「そう、この子、この子が言ったのー。」とだらしなく語尾を伸ばし乍ら私の方を指さす未来さんが、いつも思い出される。その度ごとに、私はおたふくの面を被るように、さっとインスタントの笑みを浮かべるのだ。
未来さんは、正直に言うと余り男が好む類の顔ではない。身長も高く、さらにヒールを勿論履くのであるから、さらに高い。併し抜かりなく手入れされたブロンド・ヘアと、決して剥げているのを見たことが勿い爪を見るに、未来さんも又、順応力とか適応能力だとかいうようなものが、きっと高いのであろう。
「ミンちゃんは~」と未来さんが急に言うので、適当に微笑んでおいた。
「もう、みず紀さん、ミンちゃんテンション低くない?」
そう言いながら、控室に消えていったその後ろ姿には、甘だるい香りが纏わりついていた。
そうして、やがて開店時間になり、正面の電燈のスイッチを入れる。
一人来ていない。併し誰も、特に話題にしなかった。ユリカの遅刻は、いつも通り、お決まりの事である。
みず紀さんは店で待機して、優希さんと未来さんは、小路へ出て、
「お店お決まりですか。」と声を掛ける。
私は二人が危ない目に遭った時の為に、それぞれが見えるように立って、又煙草を吹かす。
鬱陶しげに顔をしかめるサラリーマン。手を顔の前で振る失業者風の男。
大声で囃し立てる赤ら顔の學生たち。
「そんなに私たちが煙たいか。噓と愛慾に溺れてこそ、人間だろう。」
こんなとき、いつも斯様な演説が腦を掠める。良かった、若し腦と口が直截繋がって居たら、今頃牢屋か乞食だ。
煙を喫むと、むせた。
「ごめんなさい、おくれました。」
来た。ユリカだ。決まってこの時間に来るのだ。二人が外で客を引いている時間でまだ助かった。ユリカとあの二人は、所謂「グループ」が違うのだ。
ユリカだけが、少し異質なのだった。
煙草を咥えたまま、能面を張り付けた顔でドアを開けてやる。
「いらっしゃ、ユリカちゃん。もう遅いよ。」みず紀さんは𠮟らない。笑って赦すのだ。
「きょうはね、タケムラ社長が八時に来るのと、えっと電気の会社のあの…、」
「アズマさん。」と私。
「そうそう!ミンちゃん記憶力すごい。」と目を輝かせるユリカ。
「えっとあとねー、」と続けるユリカ、メモをとるみず紀さん。
ユリカの瞳。私はあれが堪らなく憎いのだ。
あの瞳が、幾つの失敗を、幾つの迷惑を、無かったことにしただろうか。
ユリカは、私たちの武器の使い方をよく心得ている。喜怒哀楽を全面に押し出し、忌憚なき意見を率直に述べる。
私や優希さん、未来さんが生きる上ですり減らして来たものを、ユリカはきっと、揺り籠から保育園から小學校から、ずうっと大切に磨き上げてきたのだらふ。
私は、ついに其れを得られないまま、流されて生きて来て了った。
ユリカは私よりずうっと年下である。しかし愛されて来た者は、愛されなかった者よりきっと成長が早いのだろう、此れもきっと、自己弁護の言い訳のひとつに過ぎ勿いだらふけれども。
「それでは、出てきます。」と、平静を装い、ガランとドアを閉める。
少し強く締めすぎたかも知れない。みず紀さんよ、どうかお気になさらず。
未来さんが、遠くから合図をした。
隣には、如何にも好色そうな四十くらいの男。二人はゆっくり歩いて来て、看板の前で立ち止まった。
「この料金はちょっと、高いんじゃないの。」
男は酒臭い息を吹きかけて言った。こういう際に、私に強大な筋肉があればな、と夢想する。そうしたら、この吝嗇男に肘鉄でも喰らわせて、無理矢理店に押し込むことができるのに、なんて。やくざめいた考えが私の腦をよぎる。
「ええ、でも今日来てくれなかったら、次私…。」未来さんが目配せをする。
「そうですね。未来さん次は来月でしたもんね…。」と私が、いやミンちゃんが返す。
いつもの作戦は矢張り巧くいった。
こういう男はきっと、歪んだ正義の名の元に立ち度いのだ。この子のためだとか、この子の瞳にやられただの言うて、結局はワイセツで助平な感情をぶつける相手を探しているのだ。ケチをつける客ほど、むっつりに違いないので或る。
こうしてお客が来たので、優希さんを呼んできて、私はみず紀さんの元へ戻った。
ガラン、と今度は努めて小さな音でスマートに開けて、優希さんに準備をお願いして、控室に送ると、さすがみず紀さん、もう一杯目を出している。
未来さんが慌ただしく準備を終えて、(準備という行為の仔細は、聞かぬが華。)
卓に着くと、
「いや、はや。モデルさんみたいだね。」
と男は未来さんを褒めそやした。ああ、男はいつから、媚び諂うことで女の機嫌を取るようになって了ったのだろう、いや、これはもしや杞憂で、もしやアダムもイヴの奴隷だったかも知れ勿い。
「そうですかー、それ他の人にも言ってますよねー。」
このような生温い会話の後、未来さんは男から指名を得た。
「やりましたよ!」と小声でガッツポーズを見せる未来さんは、大人だけれどどこか子供で、私がもしみず紀さんだったら、そのブロンド髪を乱さないように優しく頭を撫でていたように思う。
ガラン、と扉が開かれ、恰幅のよい大男が立っていた。
時刻は八時になっていた。あれから、フリーの冷やかしが二組ほど来て、ユリカも優希さんも、実入りの少ない時間を過ごしていた。
「あ、タケムラさーん。」と嬌声を発した主は、ユリカで或った。
「いつもご贔屓にしていただいて、どうも。」とみず紀さん。
「こちらにどうぞ。」と、ミンちゃんこと私。
社長のタケムラは、角の席でないと嫌がる。隅っこ暮らし、と裏で綽名がついている。タケムラはキープの焼酎とアイスペールにいっぱいの氷、そうしてグラスを持っていけば、後は特に何も言わない。わりと好感が持てる客で或った。都合がいいからだ。
タケムラ社長が来ると、ひとまず安心、と言ったくらいには、遣う物は使って呉れる男だった。
ユリカは社長の隣に腰かけると、慣れた手つきで社長のシガレットに火を点ける。
こうされると、ユリカを器量よしか何かと勘違いして了うタケムラや他の客の気持も分かるような気がした、気がしたのが又、むしゃくしゃした。
ユリカの「すいませーん。」と言う声が響く。まったく、タケムラのように水割りでも飲んでいればよいものを、又シャンディガフなんて面倒なものを。
その表情は、きっとタケムラのくゆらすシガレットの紫煙で隠れていたように思う。思い度い。
「失礼いたします。」と跪き杯を差し出す。なんと皮肉な。こんな小娘に。いけない、この考えはまるで童話の醜い魔法使いのようじゃないかしら。あな恥ずかしや。
何度かの延長をして、タケムラ社長はどんどんご機嫌になって、
「鳥渡、甘いものを何か、買ってきてくれ。」と私に言いつけた。
かしこまりました。と粛々と申して、上着を羽織るのも面倒で、そのまま外に出た。
近くの商店で駄菓子を贖い、余った釣銭は呉れてやるというので、明日の分の煙草代が浮いた。
「お待たせいたしました。」と告げ、レシートを盆に載せて差し出す。
捨てておいていいよ、とタケムラ社長。
ああ、よい。こういう傾奇かたが、私は好ましく思えるのだ。切ない小市民、社長といえど世襲の三代目。虚栄心と嘘と慾。この男は、夜を渡るのに必要なエッセンスが何たるかを理解している。
人間的、あまりに人間的とは、このようなことでなかろうか。莫迦の早計。
しばらくすると、電気屋のアズマが扉を重そうに、重そうに開けて入って来た。
アズマはひょろりとした、狐みたいな男で、噂では所帯持ちらしい。
「あ。あの。」
小さく尋ねる声で、やっと気附いたのか、ユリカが大きく手を振る。タケムラ社長の隣にいることを忘れているかのように。いや、忘れているのか。こういう刹那的なテクニックで社会を乗りこなす人間には、忘却の能力が絶対資質として有る。
世の中。カードを出さねば不戦勝なのだ。誰かの言葉。
アズマは狭い席に落ち着くと、ビイルを頼んだ。
知っている、この男は酒がつよくない。ユリカも、どうやらそれは覚えている様子で、タケムラ社長の横に坐っていた時のような頼み方はしなかった。それでも、ねだる術は熟知していた。
アズマは声が小さく、煙草も喫わないので、肺病患者の様で或った。
その様子は、一日外出が許された患者が、病院に気附かれぬように、鳥渡飲んでみる、といった具合である。
世帯持ちというのが本当なら、ある意味ではこの喩えは的を掠めているのかもしれぬ。
アズマはワンセットできっかりと帰り、タケムラ社長はタクシーを呼ばせて、帰った。ふらり、とよろけそうになるタケムラ社長を、ユリカと未来が支えた。
優希さんは、後ろで小さくお辞儀をしていた。
電燈を仕舞って、今日の営業は終り、勘定が始まる。
照明を落した隅の一角に、酒の匂い帯びた五匹、群がる。
はー、疲れた。と未来さん。すました顔でタケムラ社長のくれたチョコレートを頬張るユリカ。そうして、今日は何だかうまくいかなかった様子の優希さん。整った眉を少し歪め乍ら、ピアノ指から火がちらり。
みず紀さんが手早く、そうしてお互いを気遣って、見えない様に封筒にそれぞれの日当を入れて、手渡す。
そうして、私の手にも。
まだまだ此方を睨む月に照らされて、酒屋で一本ビイルを贖う。
家に帰ったら玉ねぎでも炒めて一杯やるぞ、なんだか今日は、考えすぎた。
考え度くないから、同じような日々を望んで、不変を愛しているのに。
テーブルの上のコップに浮かび消える泡を見ながら、
この憎しみと、愛しみと、汚さと綺麗さが、続きますよに、と願った。
大人になった、願うのは流れ星にでなく、ビイル瓶の星に、だ。
アスピリンを贖い忘れた。今日はもういい、明日起きる理由が出来たと思えば。
蚕繭
此処に一人、動物が居た。
この物語の主人公というべき、一人の人間が。
彼は全く恥の無い生涯を、十八年もの間送ってきた。罪悪を犯すことも、恥辱にさらさるることさへ、終始無しに。
しかし悲しいかな、主人公が革命を齎すか、または他人に依って変へられぬ物語ほど、退屈極まりないものもあらず。悲しいかな、彼は見知りもせぬ誰かの手に因り、その運命の刑罰に処されるので或る。
彼は父母に愛されていた、と言えばどだい、耳障りのよい心地であるが、ようは好かれる努力を、一切怠らなかったための、単純な結果でしか勿いので或った。
「優は本当に、いい子ねえ。」
と言い乍ら微笑む母を見ることを、此れこそ至高の快楽と、信じていた。
併し、其の彼の心の鍍金も、すっかり剥がれて了う未来が彼を待っていたので或る。
ー水鳥と鴎が、魚の権利を爭っている。ー
彼はお頭の方は、如何やら他人より少々出来がよく、學門に於いて、躓くことは無かった。彼の知人は、
「お前の成績が羨ましいよ、おれもそんな頭を持って居たらなあ。」
などと、彼を誉めそやしたもので或った。
彼が彼自身の知能と思考回路に依って、どれ程暗く、陰惨たる懊悩の中に身を投じているとも知らずに。
教師は彼に、所謂名門大學への進学を進言した。
「絹井、お前がこのまま、きちんと努力を惜しまず勉學に励めば、この學校だって夢なんかでも勿い。」と、彼は反す言葉に困った。
唖黙って居る彼に、不安の色を見つけた教師は、続けた。
「不安なのも訳ない。私も絹井くらいの頃は、沢山悩んだ。だがな絹井。よい學校に入れば、後の未来は自分で自由に撰べるのだよ。髙い塔に一度登れば、総て街が見下ろせるように、飛び始めた白鳥が、どこへでも行けるように。」
そう言い終えると、教師は彼の元を離れ、職員室へと消えた。
彼、絹井が黙って居たわけは、大學の名誉と栄光、そうして内実の乱れた風紀について、既に知っていた故で或った。其れ迄の十八年、制服と規則とに律され、また時には未成年の特権に守られてきた人間が、唐突にその鎖をとかれ、放たれる。
例へば、外を知らぬ胎児が産道から放たれ、訳も分からず泣くように、孤児院から解放された孤児が、たちまち何処へ歩けばよいか、分からなくなるように。
詰まる所、混乱、錯乱に依って、大學のひとはきちがいの様に乱痴気をしたり、狂乱の不潔の様を呈するのだと、絹井の肚のなかでは結論づけていた。
心情考察には、どだい自信が有ったので或る。
ー水鳥は絶ち、大地の上の魚の無為な跳躍の音のみ響く。ー
絹井はまた、自らが信じて居るものを絶対視する主義と同時に、カメレオンのように都合のよい振る舞いが出来る器用さも持ち併せていた。
訳の分からぬ冠婚葬祭の作法にも、よく従った。葬儀の折には、
「優、もう寝ないのか。」と言う父に、異を唱え、朝まで寝ずの番をした。この蝋燭に火が灯って居る意味も分からぬ儘、風の無い室内で急に蝋燭が消えると云う珍妙なこともあろう筈が無い謂いも分かって居乍ら、ただ坐って蠟燭をじっと、見詰めた。
親類の結婚の折に於いても、酔って昔話を大声でがなる、熟れきって腐った蜜柑達の調子に合わせて、興味を持つ素振りをしたり、下らないアドヴァイスめいた言葉達にも、諾々、粛々のフリをして、よいどれお化け共の御機嫌とりを卒なくこなした。
絹井は大學というものを憎んで居乍ら、安寧に身を委ねる心地よさも知っていた。
父の様に、大學を出て、お国の為に働く役人さんの職を得れば、一生涯、其の身には生ぬるい悦びが約束される。悲嘆の涙も、歓喜の雄たけびもないが、どこぞの宗教が謳っている天の國とやらは、斯様に生ぬるいものなので或ろう。生ぬるさを神聖、神格なるものと心得、生きていく、其の考えも、彼にとって理解し難いものでは勿かった。
だが残念なことに彼は、至高の悦楽と致死の苦しみを、其の身に望んでいた。
ー鴎来りて少しつつけば、魚の眼ふたたび生くるかな。ー
彼は、一人きりで二日間の旅行へ赴く旨を両親に告げた。
「學校には言ってあるの。」と訊ねる母親に、「先生には傳えた。大丈夫。」と応えた。但し教師には、身内に不幸、と傳えたのであったが。
反抗、と言って仕舞えばノータリン學者の定義附けには都合が良いだらうが、あいにく絹井の内心には、大きく苛烈な欲望と、其れを満たすだけの精気が、彼を内側から破裂せしめんばかりに膨らんでいたので或った。
いつもと同じ改札から、いつもと逆方向の、繁上華美の在る方へと、彼は向かった。
其の所以は、レールを外れた、或いは自ずからアウトサイダァとして生きる事を決めた、言って終えば、「肚をくくった」人間の生き様を、己の両眼に映さんとするがためで或った。
家を出たのが夕刻でったため、お天道様が弱っていくに比例して、街には珍奇な、酔狂な、(と、世論で言わるるであらう)人がぽつり、ぽつりと駅からネオンへ、或いは古ぼけたコンクリートの看板の元へ、歩いていく。
彼らの顔には、父とは全く異なる美しさが有った。
父の慇懃で、額に皺が刻まれた姿が、漢詞が含む静かで厳かな美、とするならば、ネオンの女のきらめきは、ジャズの調べの心地よさの美、とでも言えようか。
韻や字数の制限の中で上手くやることの易しさ、詰るところ制限の中での針通しの技術の精緻から生まれる美、対するは、自由で無限の音階の中から撰びとって、其れを魅せることの難しさ。詰まるところ制限の外、何処へでも行ける無限の体力とライセンスを与えられ、そこから手ずから摘んだ美。
どちらも美しい、とでも書けば喜ばれること請け合いで或るが、生易しい価値観こそ身を滅ぼす。法律や規則に従うのは自分に考える能がないゆえ。エテ公から進化していない証左に違いなし。己から手を伸ばさぬことには、死ぬまで人に集る壁蝨の一匹に過ぎないのだ。
そう、彼、絹井優は、其の岐路に突き当たって居た。
撰ぶことで得られる倖せと、撰ばぬことで得られる倖せ。何方に天秤は傾くか。
併し、残念なことには彼の人生を面白がり度い誰かの見えざる手に依って、其の道を何方か、勝手に決められて了うのである。しんに神だの言うものが在るなれば、斯様に人を自由自在にもてあそぶ事が出来るものに違わぬだらう。
ー鴎、魚を嚥めど、猟師の手にかけらるる。ー
其の晩、彼は女を買った。
女衒はいちいち、彼の歳など尋ねなかった。
「旦那、好きな娘で遊んでください。」と言った決り文句でもって、介した。
彼はその中から、もっとも醜く、みすぼらしい感じのする女を撰んだ。
歳は二十歳そこそこに見えた。年齢を訊く無粋さは、当然の如く彼は理解していた。
「そいつにしよう。」と大義ぶって指を指すと、「こいつはありがたい。やつは…いや、素晴らしい娘です。さすが旦那。」と女衒が持ち上げるのでした。
女衒が何か言いかけているのに気附くと、益々、興がそそられる気持でした。
女を連れて近くの宿に入ると、宿主も訳知り顔で、はい、はい、と手慣れたように、勘定を済ませました。
部屋に通されるとすぐに、愛の言葉を囁き乍ら接吻しました。
「きみを見た瞬間、僕の心にバチッ、と電気が走った。」といった具合に。
女は泣き出しました、以前斯様に籠絡した折には、泣いた女は居りません。つっけんどんに突き離す、若しくは、よろこんで、と微笑む女。大きく分けて其の二つで或ったので、ははあ、女というのは斯様な生物なのだな、とすっかり了した気でいたのでした。
此の、目の前の醜女は違いました。泣き出したのですから。へどもどしている彼に、
「ごめんなさい。私、人に愛しているなんて、言われたことが無くて。物語や御伽噺の中でしか、戀なんて私の人生には無い、って思っていたものだから。」と、鼻水をすすり乍ら、ゆっくりと言いました。
新大陸を発見した異邦人の喜びが、彼にもようやく分る気持がしました。
抱擁して、また接吻をしました。
「きみが謝ることはない。僕はきみにすっかり惚れた。君は美しい。」と言うと、
女はかぶりを振って、「そんなことありません。げんにあの娼館の中で、私が一番のぶさいくです、あなたが何故、私などを…。」と続けました。
彼は得意になって、言いました。
「いいかい、女の美しさは顔じゃあない。ではどこか。」と尋ねると、
「胸や尻の美しさですか。」と蓮っ葉女は訊くのでした。
其の素朴がこぼれたばかりのルージュに、接吻しました。
そうして、醜女の腫れぼったいまぶたの目を見つめて、ダンディズムの限りを尽くし、
「女の美しさは、心だ。」と尊大に言いました。斯様に多弁に成って居る所以は、此方次第で如何にでも出来る関係、詰り圧倒的権力差がある故なのでした。
彼は譜段は衝突を避けるため、一種の逃避行動として議論や論争めいたものは嫌っていましたが、絹井も動物の性からは逃れられませぬ、強者が弱者を屠殺するのは自然の摂理なのです。
「うれしい。」と頬を赤くする女の無知無學さに、気が参りそうでした。
人は蓮っ葉、などと罵りつつ、蓮の花を神聖視したりする曖昧模糊な生き物、と思っていても、蓮の葉の真の美麗に気附くとき、己も其の混然たる曖昧の中にいたのだな、と気附かされるでせう。
其の晩何度交わったかは、数の数えられぬ莫迦な女しか知りません。
二人で湯船につかり乍ら、彼はこの興奮の儘に、ある頼み事を女にしました。
自らの名誉と潔白とを、いっぺんに無に帰して了う、頼みを。
女は初め、其の提案には異を唱えていましたが、彼の熱弁詭弁、そうして極め附けには、彼がぶ厚い札束を見せたことで、しぶしぶ承諾しました。
此のお金は、どこから、と訊ねる女に、証券でもうけたあぶく銭だよ、と絹井は応えましたが、事実は違いました。女衒から、この女をもらってくれ、と頼まれていたのです。
「旦那、こいつをもらってやってはくれませんか。いやいや、結婚だなんて言いませんよ、如何も客がつかなくて、ごくつぶしなんです。むろん、ただでなんて申しません。もらってくれるというなら、相応の謝礼金を…。」
其の言葉に、正義だの、法だの、女の権利だの、言う丈け奈良誰にでも可能でせうが、果たして目の前に女と金が同時に手に入るスイッチが有れば、どれ程立派な政治屋、宗教奴隷、法律家先生でさえ押して了うに相違有りません。
「分かった、うちで引き取ろう。」と直ぐに返しました。返事は疾く、大きく。
教師の教えが初めて役に立ちました。同時に、「人の為になれ」という父の金言も無事に、達成することができました。ああなんと素晴らしい心地でせう。
斯様の訳でこの女は、何も知らぬ儘この宿へ来たのです。再び娼館に帰られると、愚かにも思っているのです。
悲しいかな、女はレールを外れて了うと、取引の材料にまでされて了うのです。げんに、目の前のこの醜女が証左になり得ませう。騾馬扱いされようが、知力、権力、筋力。この一つも持たざるものは、総て等しくいずれ賢者、帝、暴力集団。それぞれの道具になり下がるをえないのです。
併し、この絹井という男は、あいにく、そのような支配行為だけで快楽を得られるような小さな器の持主ではありませんでしたので、件の、頼み事を女にしたのです。
絹井への最大の汚辱、凌辱、侮辱であり乍ら、同時に女の優位性、権利の回復、ヒトらしさの最大の尊重。それらが一気になされる方法が、一つ丈け。絹井はそれを願いました。
風呂から上がると、絹井は蒲団に仰向けになり、
「それじゃ、頼んだ。」と言うと、女は絹井の上に跨り、吉舌を絹井の口に、ぐりぐりと押し付けました。そして、「噓吐き、莫迦、フーテンのやくざ者。」と悪罵します。
斯様な事を約半刻ほど行うと、女は腰を上げ、絹井の一物に小便をかけました。其の後、血が出るほど強く、其れを擦りつけました。
「やはりきみを撰んで良かった。とても素敵だ。」と言う絹井、女は彼の頬を平手で殴ちました。それから、また悪罵が始まりました。家畜、エテ公、娼婦の息子(女は娼婦の意味さへ知りません)など、方々の呪いの言葉が加えられた後、
「もう、よいですか。」と、ふと女がしらふに戻ったように冷めた調子で言いますと、「訊かないでくれ。頼んだのは、其の様な態度では勿からう、もっと厳しく、粛々と、冷酷たる態度で或れ、と言った筈だ。その様な良心めいたものこそ、快楽淫蕩のエデンから追放さるるべき、蛇だ。」猛った男は続けた、
「きみがこれからする行為は、きみを間違いなく倖福にする。其れで僕の方でも、この行為をもって、至極の悦楽、ああ、すまない、とてもうれしいという事なのだよ。善は急げと言うのはこのことだ。さあ、早く二人で倖せの中で絶頂しよう。」
「わかり、まし…。ぐちぐちうるさいわよ、金魚の蠅、リンゴの糞。」と女、その目には、もはやかつて男だったものは映っておらず、變わった形の金塊のみが鎮座していました。
女は再び、絹井の口の上に跨ると、こんどは菊座を押し付け乍ら、絹井の脚のほうへ、身体を伸ばして、右手には一物を、左手にはカミソリを持つと、バイオリンを弾くように優美に、ゆっくりと一物をカミソリで撫ぜ、絹井が呻吟する毎、その股を息も出来ない程強く、押し付けました。
芯のある堅い柱が切れると、絹井は失神しました。女は取りも乱さず、ああ、こういった具合なのだな、と、豚の解剖でもするが如くでした。あっさりと、男なんかこうすれば抗える、強い振りをする弱い生き物なのだ、と女は知りました。
そうして、絹井を揺すり意識が戻ったと見るに、そのバイオリンの絃をぷつん、と引きちぎりました。絹井は満面の笑みを浮かべ、また気絶しました。
その後、言いつけ通りに殖栗を噛みちぎりました。人に犬歯がある理由を、このとき女は初めて知りました。その後、口に含んで其の脈動を味わった後に、咀嚼して嚥下しました。アイロニカルな事もあるもので、この女は今まで、動物の肉と言うものに与かること勿く、粗末な米と汁のみしか、口にしたことがありませんでした故、世俗の人間の食文化の中で、最後と最初を間違えた様な格好と相成りました。
殖栗は温かく、嚙み応えがあり、こんな美食にはじめて与かった女は、内心驚きでした。真坂同じ種族の中に、米より更に美味しいものが眠っているとは、だから皆、服を着て隠しているのだな、と女は合点しました。
併し、ぼうっとしている訳にもいきません。最後の仕上げに取り掛からねばならぬ女は、何度も平手打ちをして体を揺すり、やっとの思いで絹井、いいえもう只の人形です。何の価値もない、道具としても使えない、取引の材料にすら成れない。そんな傀儡を起こすと、首に手をかけました。
手から傳わる脈動、肺病の様な呼吸音。びくびく、と痙攣する皮膚。
遂に、女はぐいと力を入れると同時に、レクイエムを捧げました。
「傲慢、怠惰、偽善、自己陶酔、娼婦の息子、落ちこぼれ、自堕落、淫蕩、壁蝨、」
「犯罪者、犯罪者ーー。」と大声で怒鳴ると同時に、玩具は完全に壊れて了った様でした。
や、やれた。
何をしても出来勿い私が、初めて人の頼み事を出来た。やりのけた。
直ぐに衣服を身に纏い、絹井の持ち物を総て鞄に仕舞い、其れ丈けを持って宿を後にしました。
何とも言えぬ高揚感で、一連の成功を早く娼館のお兄さんに傳え度い、と駆けて娼館へ帰ると、女衒は、
「おい、お前の居場所はもう此処には無い。先刻の旦那さんがお前を買ってくれたんだよ。」と背中を向けて目も合わせずに言うので、自らの手柄を傳えうる能わず、娼館を後にしました。
ー鵜とならば 骨も残さず 飲み下すー
教壇に立った教師が、朝礼の最後に言いました。
「絹井が、旅行先で不幸な事故に遭って亡くなった。黙祷。」と言い、教室の中はたった一分のみ、静寂が支配しました。そののち、教師が去ると、方々で生徒たちは、
「なんまんだぶ…」「よせ、よせやい」「先生に聞こえるぞ」「花買わなきゃね」「え、死んだ奴の為にこずかいは使えない。」「確かに。」「確かに。」「確かに。」
ご機嫌取り、賢こぶり、マザコン、唯一の中卒、最速合格、その他様々な罵詈雑言と皮肉が書かれた机は、翌日の朝には教師の手で廃棄され、清掃業者が分解して、如何なる思いも無く焼却炉へ投げ込みました。
絹井の父母は、宿屋から連絡を受け、警官立ち合いの元、本人と確認しました、併し事件とあっては父の地位と名声に伊佐坂不利益を被るため、警官に僅かばかり、おひねりを遣ると、「事故」と書類に認めて、署へ帰りました。警官はその夜、あぶく銭でたらふく、ご贔屓の酒色にふけりました。
裁判官や検事にも、いくらか握らせて、遂に解剖医が来ることさへ勿く、葬儀屋がやって着ました。
葬儀屋はうやうやしく金を受け取り、坊主も金を受け取り、葬式は父母の二人のみで行われました。密葬の最中、母は泣いていました。さめざめ、およおよ、なんと表現し得ませうか、叫びと思わるる程、烈しく。期待の、良き息子の惨殺遺体を見ては、又、噎び泣くのでした。
一方で、父は満足げでした。自らが口を利けば、多少のことは問題が無いのだと云う事実を、実体験で以て知られたのです。喜ばずに居られますまい。
坊主と葬儀屋は、葬儀が終わると直ぐに、久々の大きな実入りの喜びに浸り乍ら、突き合って果てました。
絹井優の死は、人を倖せにしました。歴然たる事実です。
彼は死ぬべきで勿いだとか、期待を裏切っただとか言うものが有るのなら、その人はきっと、ハッピークラッピーか彼の母親かでせう。
そうして、もう一人、倖せに成った人物。
首相と寝食を共にし、時折大臣や関係筋との信頼構築のために「仕事」をする。
豪勢な肉、魚、ありとあらゆる物を食べ、併し満たされず、時折「外食」に出掛け、
おこぼしを運転手に拭かせ、邸へ帰ると、首相は
「また出掛けてたのか。俺ではだめか。」と問うた。
「だめね、私、今はどんな男よりも強いの、ただ一人、敵わない愛すべき最高権力者を除いてね。」と微笑と共に返す。
「ああ、確かにそうだな。お前より偉い俺は、どんな人よりも強いか。」と首相。
一拍の後、
「残念ながら、それは無いわ。男は結局、女の手段、計略、奴隷や騾馬。寄生する壁蝨に過ぎないの。」と返す。
「おお、愛し君よ、日に日に成長する罵言、素晴らしいよ。」と言い乍ら、首相が接吻を迫ると、
「待って。絹井って人、今度会わせてよ。」と遮るのでした。
「いいとも、彼は盟友だからね、お手柔らかにね。」と言う首相を見て、
「如何かしら、私がもしも男でしたら優しくして差し上げたかもしれないわね。」
二人は涎まみれになる程、烈しい接吻を交わしました。
齢、十五
十五の頃、私はしんに清かった。
聖典で語られる赤子のように、阿呆で或ったのです。
己に纏わりつく厭な縄、千切られることの勿い鎖、そうして、其の身に科された不定期刑にさえも、鈍感でいたのでした。
つまらない黒い髪を、ただただ伸ばして、服からは見えないどこかの体毛でさえ、茂り放題で或りました。
恥ずかしいことでは勿いのだ。なぞと其う書き置いて了う己の醜さに、嘔気を催します。
今よりも十キロ以上も太って居て、(成長期、なぞという文脈の話ではないことに留意されたい。)
ようは、現在の美醜に囚われて生きている私とは対極のような生活を、送って居たのです。
知らない事、気附かぬことの美徳など、知る由も勿かった。
寧ろ、様々なことを知っている人間、博学、物知り、経験豊富、其う云う者に、憧れさえ感じていたのです。
その愚かさ、無知蒙昧かげんが如何に素晴らしく、取り戻すこと能わざるかなど、考えもせずに。
自由なんという、重い呪縛に思いを馳せてみたり、さらには「自由が慾しいよね。」などと級友と語らうことさへ有りました。体が大人に成ったら、腦も精神も共に成長して、立派な華が咲くと愚かにも信じ込んでいました。ザ・フール。
蕾のままでいつまでもいられたら、如何程に倖せか。己の大事な種子や花弁を、独り抱きかかえた儘、終ぞ土に還られたら。その実を啄まれることも、蜜を吸われることもなく、一つ静かに枯れることができたなら。
純潔、ヴァジニティの麗しさ、奥ゆかしさ。出ない杭の安定度。
巻き戻しの出来ない一生で、間違ってゴミに棄てて了えば二度と、手に入ることのないもの。
今更になり、その美しさに気が附いたのです。
自由の残酷さに気が附いたのは、十六になってからでした。
決める事が出来ると云うのは又同時に、決めなければならない、という不自由の鎖で繋がれているのも同義なのです。
道が一本しか無ければ、其の道を行くだけですが、道が四方八方に伸びている所為で、人は迷い、悩むのだと、段々よ自由、という言葉のネグレクトさに苦しめられる様に成りました。
もう大人、と突き放され、放り投げられる不安。明日をも知れぬ末恐ろしさ。
不安で仕方なくて、私はひとつ、道を決めたのです。
夜の蝶、とでも言えば耳障りは伊佐坂良いでしょう。しかし、蝶の様にひらひら舞ったり、おいしそうに花弁を舐めとったり、そんな悠々自適なものでは在りませんでした。
所謂、サラリーマンに求められる様な常識や、マナーやモラル、その他方々の作法をしっかりと、サラリーマン以上に、求められるのです。持たざる者は、棄てられる。使い潰されるさだめ、なのです。
「あの子、感じ惡い。」「挨拶ができていない。」「礼儀が一番だから。」
何人の蝶がくたばったかなど、研究者もおりませんゆえ、言葉通り、無法地帯なのです。
蝶だの花だの、表現する方がおられますが、其れは、幻燈の幻覚に酔っているに過ぎないのです。
誰も、咲く前の花、羽化する前の蛹なんて、慾することはついに勿いのです。
それでも未だ、己の阿呆さを信じたくあらば、昼の私たちをしかと見てごらんなさい。
蝶によく似た毒蛾です。模様が綺麗なだけの、よく似た全くの別者ですから。
今も、他人の為に染めた栗色の髪を見るたびに、日々、擦り減っていく靴底とヴァジニティを憂います。
他人に教えられて整えられた体毛、何処に出ても恥ずかしくないように手術をした顔。実利の仮面。
ときどき、私は誰なのか、アイデンティティが崩落しかけます。その城壁を、粉やクリームで埋めて、如何にか斯うにか、取り繕って居るのです。
一度焼けた寺社仏閣が、二度としんに元の姿形に戻ることが絶対に勿い様に、よく似ております。
私はついに、自我が継続して居る事実すら、あやふやに成って了って、いいえ。自分から、あやふやにして居るのです。
十五の頃の自分を汚らわしい、不潔、だの罵って、他人の振りをしているのです。
しかし大元を辿れば、十五歳のヴァジニティを直視出来る程、強く勿いのです。
直視して了ったら最後、自己嫌悪の無間地獄に突き落とされるでしょう。其の眩しさに眼を灼くでしょう。
変体、変身した積もりで居ても、十五歳はじっと、此方を見ているのです。
「私が望んだ自由の果てはこんなものなの。」「私はもっと自由に羽搏いていくはずだった。」
夢枕で告げられた折には、何も言い返せずに、唖黙って了いました。
「すごい、私じゃないみたい。」
そう、其れこそ、総てで或ったのです。
「似合っているよ。」「可愛いよ。」「好きだなあ。」「素敵です。」「綺麗だ。」
そんな言葉の濁流に押し流されて、離岸流の如く、気附くともう、岸は遠くに靄がかかってゆきました。
他人に必要とされる、其れが倖せだと、勘違いし続けて了っていたのです。しかし、いい加減にもう、其の言葉たちの裏の目的くらい、容易に判ってしまうほど、いやに賢く成ってしまいました。
ニーズとサプライは、凸凹の様に規則正しく当てはまるパズルではありません。
どちらかが、形を変え乍ら、如何にか見かけ上はつつがなく、過ごすものなのです。擦れて、諦めて、そうしてはじめて、人と人との間柄は成り立つ、そう思うのです。
そう考えると今まで私は、諦めて、削れ過ぎました。其れも、自我同一性の断絶に繋がっているとも思えます。
「私は、別に大丈夫。」「心配いらないよ。」
幾つの言葉で、身体を、腦を、自我を、削ぎ落して来たのでしょうか。
なだらかな平地の様に、他人様が歩きやすいように削れて了った腦味噌では、如何も、数え切れません。
鳥は飛ぶために身体を軽くして、無駄なものを削ってやっと、空を飛べる様に成った、と聞きます。
人として生まれて居なければ、私はきっと、大空遥か羽搏く鷲にでも成れたのでしょう。
なんて、シャレの様な無駄言を吐いて、又、自分自身から逃れようとして居るのです。
逃げたい。其れが、本心なのです。
ー何もかも投げ捨てて、いっそ。ー
と考える度に、如何にか無理矢理洗い流して、見えない所を洗うように、肌が荒れてもお構いなしに何度も、擦って。
磨いたところで原石のころの素朴は、終ぞ現れないのは百も千も承知ですが、逃避、心だけでも何処かへ旅でもさせるような姿勢で勿いと、とうとう、気が触れて了うことは、私にだって判る気がするのです。
自由、と云う課題に対して、私が出した答えは、噓と虚飾。
正解でも不正解でも、構いません。再提出は叶わないのですから。
野山を駆けて、流れに漱いだ十五歳。自由を信奉していた其の美しさ、阿呆、白痴。
其の姿を、陰から覗く化け狐。いずれは猟銃で撃たれ、殺される事を知り乍ら、「私は知らない。」と下手糞な噓をついて、遠くから、振り向かれない様にじっと、十五歳を覗いているのです。
天や神や悪魔や獣の類で勿く、自らが科した刑罰に、今も科されているのです。
不定期刑。いつ終わるのか知れぬ、噓吐きの小喜劇。
本物のトラジディは、棄ててもまた、還ってくる。量が増す計り。
ダイアモンド、エメラルド、アイオライト、ルビー、ラピスラズリ、なぞ総ての「宝石」、と呼ばれる者どもは、
殻の中で熟成される、歪んだ形の真珠の美しさに、一切合切、敵うことが勿いのです。
人は女ごきぶりの悲しみを知らず
「人は、女ごきぶりの悲しみなんて、ついぞ知ることがないまま生きるのですよ。」
やわらかに髪を乱す、明朝の清潔な風に、その声を聴く。
地面が歪むけがらしい暑さに、涼しく凛とした風が疲れることもなく寄り添う。
その人は、私の、ごきぶりの世界の中でもっとも美しく、徳のたかい者であった。
人などの持つ、通俗の汚さとは無縁であった。
今日のような日には、など陳腐な枕詞で、あの人の影と、その陽光をも制するほどにまぶしい、明かるさが思い返される。
どこかで最高気温が出た、コウシン、コウシン、など方々で騒がしい声をきいた。
あの人は、台所に立っていた。
「お茶ですよ。降りてきなさい。」
そう、言葉じりだけ書くとトゲのある言葉でもって、マイルドな声音で呼びました。
「はぁい」
とぶっきらぼうに言って、降りて行きました。
茶碗が四つ、並んでいました。
一つはその人の、一つは私の。残りの二つはなんでしょう。
ぼうっと考えていると、その人は台所からリビングに来て、ふと一つの茶碗を取ると、仏壇にお供えになりました。
仏壇。あの忌まわしい、けがらしい人間様が、広くない和室の一角で、今もえらそうに、陣取っているのです。
その人の背中には、もの悲しい素振りなどなく、ただ淡々としたさっぱりさがありました。仏壇の前でさえ、それは変わりませんでした。
私は、着てもないシャツの襟を、正したくなる思いで見ていると、
「なんよう、ほうれんそう、」
とその人は唱えました。たしか、どこかの聖句だったように思います。
窓から這入るぬるい風が、お茶碗の水面と、私の触角を揺らしました。
四つのお茶碗のうち、一つを私が飲んでいると、その人はリビングに来て、
「お茶がおいしい日ですね。」
と、言いました。
お茶がおいしい、それは確かなのですけれど、それは、今日はいつもとお茶っ葉が違うのかしら、と考えていました。
今思い返してみますと、それは、熱い風と、それを増長させる鉄筋の地面への、最大級の皮肉だったように思われてなりません。
ほんとうのところは、その人しか知らぬのですけれど。
その人は、細い足で丁寧にお茶碗を口に運びますと、音を立てずに、静かにお飲みになって、
「あとの一つは、あの子のぶんですよ。」
と、言いました。あの子とは、姉のことでしょう。
姉は、人間様に変わってから、私たちの生家を訪れなくなりました。
大変えらい、「人」です。
しかし、私にはそのとき、いいえこの先も、姉について一切わからぬのでしょう。
ごきぶりを辞めて、人に転じた姉が。
しかし、そんないわば行方知れずの姉にも、その人は平等に、なんの忖度もなく、平等に冷たい緑茶を注いでくださるのです。
かような、些末なことは、時が経った今だからこそ、くよくよと考えることができることですけれども。
お茶碗が二つを残して空になり、洗われたそれがすっかり乾くころ、その人はお仕事に出て行きました。
その時間には、私は寝息をかいていることが多かったように思います。
窓のそとから、ゆらり、と妖しの如く太陽が上ってくるころ、その人は帰ってくるのでした。
「ただいま、もどりましたよ。」
と階下で声がするのを、目を閉じようか開こうか、迷いながら聞きました。
その声が、姉が出て行ったことですっかり、あの仏壇を除いてがらんどうになった部屋べやに、うつろに響くのでした。
帰って来た折にも、その人は、「なんよう、ほうれんそう」
と唱えました。
仏壇に。人間様を祀る、それに。
そこにねむる人間様は、人間その中でも、大層えらい方でした。
「’’’’’’’’’」
私たちに分からない言葉で、人間はつぶやいていました。
お茶を懸命にそそぐ、その人を、何度も手でもって振り払いました。
あの人間は、時折発狂したように我が家のなかを暴れまわりました。
「””””。””””。」
これは、人間様でなく、その人があの人間めに言ったものです。
たしか、こういう風に言うと、決まって決まり悪そうに、人間様はすこし眉間に皺寄せながら、座布団に座るのです。
その人にしか使えない、人間様を超えた技術。
魔法、とでもひとつ付箋を貼っておきましょうか。
風が次第にぬるさを捨てて、甲羅を刺すような冷たさになったころ。
「いいかい、」
と、その人は言いました。
私はその人の膝から、じいっ、とその人の声を、自動車、バス、商人、女衒。その他もろもろよりも注視、いいえこういった折には注聴、とでも申すのかしら。人間様の言葉には、いまだに慣れませぬ。
「人は、女ごきぶりの悲しみなんて、ついぞ知ることなく生きるのですよ。」
その人は、庭のススキの穂のほうに目をやりながら、こともなげに呟きました。
草葉の根の如く、そのひとの足の上は温かく、いつもそうされる夜には、譜段よりすっきりと、私は眠られるのでした。
あくる夜、その人はいつものごとく、行ってきます、と私の肩に手をそえていうと、出て行きました。
私は、うなずいて、その人の目を見つめました。
その目に映る私を、たしかに見ました。
日がのぼって、その人が帰ってきました。
その日は、私もぐうぜんに、起きていました。
「きょうは、煙くさいですね。」
と私が無礼にも言うと、
「そうです。この頃、どうも人はお変わりになりました。」
と申されました。
人が、その人に煙の、どうにもいやな匂いを纏わせているのか。その人の、元来の美しい香りを、けがしているのか。
それを聞いたさいに、真っ先に姉の顔が浮かびました。
しかしその時には、私にもその人にも、姉の言葉はすっかり分からなくなってしまっていましたので、どこに勤めているだの、何をなさっているだの、知る由もありませんでした。
今、姉はごきぶりの権利を主張しています。
ごきぶりの虐待、ごきぶりの商品化、ごきぶりの悲しみ。
それを、人間様に向けて、大声で叫んでいるのです。
その演説は、ごきぶりには聞こえない。
ごきぶりの言葉ではないからだ。人間様のお言葉だからなのだ。
姉がそういった議論なぞをしてもしていなくても、その人はただ、
「人は、女ごきぶりの悲しみを知らず。」
と私の枕元でいつも言うのでした。
私はあるとき、尋ねました。
「人間はなぜ、私たちの悲しみを知らないの。」と。
その人は、すこし目を見張って、目の中の私を大写しにして、言いました。
「人間は、素晴らしく崇高なのですよ。
私が明日のごはんを持って帰ってこれるのも、人間様がお優しいからなのですよ。」
その人は、あくる晩、死にました。
広げられたその足はいまだ美しい色で、人間様が恥ずかしがって隠すところでさえ、美しかったのです。
蟻の葬列を見送りました。
私は、人間になろう。
優しい、人間になろう。
仏壇の忌まわしい憎たらしい人間でなくって、とびきり優しい人間になろう。
あの人は、しんに人間をお慕いなさっていた。
神は亡くとも、仏は泣くとも。私は、ごきぶりより、美しきあの人よりも、優しくならねばならぬのです。
あの人へ。
私はいまだに、人間が優しいだなんて、お言葉ですが思ったことはございません。ほとんどの人間は、自分のために生きている者ばかりです。あなたのように、他者を思いやって生きている者なぞは、出会ったことがありません。
姉に、会いに行きました。
姉は、私をたいそう嫌がり、怪奇に臨するごとき目をしました。
「’’’’’’’’’」
としきりに口にして、煙をたいて私を遠ざけようとしました。
街頭に立つ姉の分かりやすい言葉でなく、難しい言葉で。
街頭の姉の言葉をお伝えさせてください。
ごきぶりの、権利。
ごきぶりの、自由。
ごきぶりの、悲しみ。
私は、姉がうたうその文句を、冗談なのかまことなのか、解すことができません。
あなたでしたら、しんに強いごきぶりのあなたでしたら、分かるのでしょうか。
あの晩の、あなたの言葉。
「人は、女ごきぶりの悲しみなんて、ついぞ知らないまま生きるのですよ。」
あなたが寝床にいつも置いていった言葉は、本当なのですか。
それとも、ただの冗談なのでしょうか。
姉は、ついに人間に変わりきってしまって、ごきぶりの悲しみを忘れたのでしょうか。
ああ、私はおかしくなってしまいそうです。
人間様の悲しみも、あなたの、ごきぶりの悲しみも、分からないまま、知らないまま、生きるのでしょうか、生きていかねばなかぬのでしょうか。
半人半虫の私は、どちらにも、しんには成れないのでしょうか。
ヘンタイは、起こらないのでしょうか。
人の悲しみもごきぶりの悲しみも分からない私。
鳥や犬に内心びくびくしながら、友人には気丈に振る舞う私。
人も、ごきぶりも、あなたを除いてすべて、怖くなりました。
さいごに、拙作のつまらない詩句をひとつ、置いておきますね。
「人は女ごきぶりの悲しみを知らず、女ごきぶりは人の悲しみを知らず。
どちらも解せぬ者、人にもごきぶりにもあらず。」
ピーピング友
ある日の丑の刻のことである。
私が酒の酔いも少し醒めた心地で、退屈の煙によごされ乍ら、煙草屋の店先でぼうっ、として居ると、後ろから、
「兄さん、退屈しのぎのカフェインはいかが。いかが。」
と、声がする。振り返ると、疲れ切った様な、如何にものん兵衛らしい背広の小男 が、立っている。ほとんどきちがいのように、いかが、いかがとうるさい。
「しつこいな、」
とぴし、と言うと、とたんに涙をうかべて、
「買ってくだせええ。おいらはクビになってしまって、今日のツケさえ払えないん だ。」
と、赤子のごとく頼み込んでくる姿に、周りの酔客の目の哀れみさえ感じて来て、どだい具合の悪い思いで、言った。
「買ってやる。しかしカストリのような下等品では、おれの舌は満たせないぞ。」
格好つけて。ほとんど押し付けるようにその乞食男に、いくらかの金を払った。
「ありがとうごぜえやす。飛切りの上物でごぜえやすよ。兄さま。なんたって、このクビになった腹癒せに、すっかりバラしてやるのだ。」
乞食は、これであのバーのツケが払えるだの、方々つぶやき乍ら、語り始める。
この乞食ふうの背広男は、郵便屋づとめであったこと。
そうして、風変りなやり取りをこっそり開封していた所を、上司に見つかったらしい。
本当か噓か、ひまつぶしには丁度よい物語、ストーリーであった。
二 三葉の手紙
まず、一通の手紙が、痛ましく心を惹かれた、と小男は語った。
あれはもうどれ程前のことであったか、と話しだす男の唇の横の皺が、てらてらと嫌に輝いていた。
一つ目の手紙。
「よう、お前が亡んだら、おれは白タイに赤のタキシードで以て、行ってやるぜ。だってお前、喜劇を見に行くのに、シケた格好じゃ、つまらねェ。
三千と五百円で憂鬱をダースで購って、バカの極みだ。バカ學の教授さま。如何すればあなたの様に其処までご立派に成れやすか。ご教授ください。
あ、こういう折には、教えて呉れ、等と云うんでしたっけ。なにぶん、劣等生ゆえ、見逃して下せえ。」
七月十四日。
あなたの塾生より。
小男は、十八番の噺をするがごとく、淡々の調子で話した。
私はいったい、この下卑た坊主のくだらん懇願に、何の興味を刺戟されたのか。
ーやはり、こいつは狂人か。殴って金を取りかえそうか。ー
しかし。どうせ煙草屋の店先で二束三文で聞ける演劇なのだ。とこらえて、
小男が物語を次ぐのを、だらしなく相槌を打ちつつ、待った。
二つ目の、手紙。
「返信がねえのは、いつものことでござんすね、さぞお忙しいのでせう。
なにしろ大先生ともなると。
テキ屋を思ひ出すよ。お前の話を聞いて居ると。かりそめの仕合せ計り語って、内身はすっからかんのがらんどう。うどの大木。
夜逃げ前の朝みてぇでひどく、シケていやがる。」
七月二十八日。
二つ目の、いかにも他人に対してぶっきらぼうな態度には、少し噴き出して了った。
すると、小男はにやにやとはにかんだので、咳ばらいをして、続けなさい、と大義そうに言った。
小男は得意になって、はいと応えて、続ける。
「三通目。仏の顔もなんとやら、忘れちまった。ああ小雪がふりかかれば乙なのに、 日差しの野郎がバカみてぇにしつこく降り注ぐよ。
先刻の手紙は、少し、ほんの少しだけれども、言い過ぎた気がして如何もぐあい惡い から、武士の手心を加えてやるよ。
何もよ、お前が大罪者みてぇなツラで生きるこたァ、ねえんだよ。現に、人を殺めた奴だって、出て遊び廻ってるって聞くぜ。俺様の耳はロバの耳。
カタギ。堅気すぎるんだよ、一度やくざ者にカブれたンなら最後までやくざでいやがれ、如何も最近は、お前の、大役を張ったトーシロ雀士みたいな薄笑いが癪にさわる。
お前の薄笑いは、モナリザの微笑でも、女子供が主人に気を遣って出った美なぞでなく、醜悪だ。お前の忌野、際にはおれは石を投げるぜ。
八月は暑くてかなわねえ、お天道さまにはかなわんね、十日、そろそろ盆だね。」
どうも、ところどころの含蓄と皮肉に、するり、と侵入せられて、真水をのんだ様に、気持ちの惡い酔いなんか消えてきて、小男の言葉をただ、聞いて居た。
まんまと、聴客にさせられてしまった。
三 返信
しかし、これほどまで書いて返事がないのに書き続けているのは、なにやら気色が惡い。小男の趣味の惡い漫談のようにも思われて、問う。
「いや君、これほどまでに一人で話続けているものがあるか。するにせよもう少し巧く。第一ジョークというのは、」
と、語りかけた私の言葉を遮って、小男はまたあの、いやな皺を口によせて、
「お客さん、興をそぐことを言っちゃいけません、どうせ、ここに居るのは台所のお醤油に集った二匹の蟲に過ぎませんですから。」
酔いどれ乞食の、ユーモアとも名状すべき機転に、豆鉄砲を喰らって、こちらもまた、咳払いをした。
小男は又、漫談を続けた。てらてらと煙草屋の電燈に照らされるニキビまみれの顔。
四通目。
「お盆ですよ。しかし何だろう、お前は趣味がわりぃ、少くとも、おめぇは現代向き の大衆、いわゆるポップ・カルチャーの対角線上に在る。それ計りか、まるで天から見下ろすように世間を見てやがる。 気に食はねぇ。 無學、無腦の阿呆が、偉そうに。
おれ様たち、勤勉勤學の善人が、割を食うんだよ。外へ出て来いよ、いい加減、あれだ、やくざ風に云うなら、オモテ出ろよ。其の蒼白顔で、ヨイトマケでもやってみろ。己が無力に打ちひしがれてこそ。社会的動物。
お前は、鹿だ。何も真に考えてやしねぇ。 もしゃもしゃと草を喰らい寝るだけ。
何が絶望だ。得ようと望まないから、さしづめ、お前のは『無望』だろうよ。
ディア フレンズ。この頃流行りのくせぇ文句を添えて。」
八月十五日。
懲りない男。暇で仕方ないのか、「教授」さまが憎くて仕様がないのか。
しかし私は知っている。
愛憎、つまり愛着も憎悪の花の肥料には、関心がかかせないことを。
つまるところ、この手紙の主は、相手に強い関心を寄せている、執着といって差し支えないほどの。
小男は、
「さすがに手紙の受け取り手も怒ったのでしょうね、」
と蛇足を加えて、セルフ・アシュームドを露出せながら、続けた。
先の手紙から三日の後に、返信があったという。
拝啓。
「きみは、お風呂に蠅が飛んでいると、ア掃除の頃だなと、其の不潔に気附くだろ う。其の如く、きみは所謂、「社会」と云うものの中に、泥の中の花の純白、あるいは お便所の糞の下の真鍮の指輪の輝きに、己が美しさ、其れと己の周りの安寧を得ている に過ぎない。
縄目の恥辱を受けたことのないきみの様な者にも、目に見えぬダニのように、人の目に附いていない丈けの、罪。悪徳が有るに相違ないのだ。
人は生れ乍らにして不倖だ。
活き活きとしても、線香の煙のように生きても、最期はコフィンの中。
社会學だの、経済學だのの前に、少しは神學を知ったら善いのに。
おせっかいな隣人より、哀れなる子羊へ。」
オウガスト・エィティンス。
敬具。
なんだ、醜男どもの痴話げんかめいた物を想定していたら、蓋を開けてみれば中々。上々までとはいかずとも、少し冷めていた興が温まって来た。
小男に気附かれないように、それで。と吐き棄てた。
また奇妙な口上めいたものを、この小男は挟んで、
「さあ、やっとこさ返って来た言葉に如何に応ずるか。」
はぁ。とため息を小さく吐いた。
返信ありて。
拝拝。
「御霊前のエス・クリストを持ち出すとは、流石。
盗みの心得が有る大先生なればこそ。 お前のアレテーは騙すことかな。
すまない。『騙』と云う字は辞書を繰った。此の様な正直の美徳が、『駄馬』のお前には有りますまいな。気取るな。
美徳を持たず、頽廃と罪を語るお前。
馬へんの、変な、見たことの無い字で以て、アイデンティティだのジェンダァだの 作家を気取って大層に書かれる、隣人さまに。呪、じゃねェや。祝福あらんことを。
ザー、ちげぇや。アーメン。
アウグストゥス 二十、なんつったか。
英辞書は売っちまったンだ。」
仏具。
投げ槍な言葉だらけの結晶であるが、二日で返事を書く辺り、ぶつくさ文句を言い合っても一緒に暮らしている老夫婦のように、腐れ縁のようなものだろうか。
小男は目を時々上に遣りながら、話す。
右上だったか左上だったか、そんな与太話を聞いた節があったが、下らなくて忘れた。
「そうして、その大先生とやらから返事があって。」
と、要らないお通しを添えて、話し出す。
拝啓。
「きみは尊い。きみのように無教養で何も知らぬ働きアリは、エスに手厚くもてなされるだろう。ぶどう酒とパンでもって。
きみは酒が飲めなかったか、ならぶどうでジュースを拵えるくらい、主には手心と機転があるであろう。
私は、マイネ。
頭が重たくて外へも出られぬ。教えに「呪」われて、小便の所作、服の脱ぎ方でさえ、過ちを犯していないかしら、と気がかりなんだ。
こんど、聖書を送ろうか、それとも、マルクスだのの資本論だとか云う、血腥い奴の方がきみ好みかな。
あと、信仰もしていないパリサイの祝詞では、誰も救われない、とぼくは思うよ。
どうも、君の文字を読んでいると、サイレースの如く眠くなる。
今日は手を休みます、お休み。わが手、そして愚かなるパリサイのきみ。
伊佐坂、しゃれた修辞でもって、グッドバイ。
P・S
二十日は、トゥェンティースと云う。そうして、拝拝でなくって、拝啓だ。
啓。啓蒙してやりたいよ。きみのザヴィエルより。」
セプテンバー ファースト
敬具
静かなる反撃。無言の抵抗。ガンディの如く、さとい手段。人間くさい方法。
ああ、新聞屋や郵便が廃業にならない「わけ」のようなものが少し分かった気がする。
「それで、次にお話しします手紙が、クビになる前、最後に読んだものでございます。」
ショータイムの終りのベルの響きに、郷愁とも、解放の喜びともつかぬ情が、ぶわぁ、と肺腑を満たして了って、咳をした。
これは煙草によってですよ、という風に、語り部に格好をつけて。
四 ラスト・レター
小男の盗み見た、さいごの手紙。
「よう、堕姫。没落貴族。徒名だ。くれてやるよ、おれは徳の人だから、牛太郎の取 り立てはしねえよ。なんて、近ごろ流行りのカルチャーに、カブれていないお前にはこ のユーモアがわからねか。
P・Sだの拝咎、咎具だの、(ここの字は、ハイトガ、トガメグ、と小男は説明して、空に字を書いて説明したので、くやしくも、ぷっ、とふき出して笑ってしまった。)
使う機会も無い美麗字句計り、覚えやがって。肥え太ったブロスターだよ、お前は。
ブロスターで思い出した。此の前うまい焼き鳥やを見つけたよ。なあに、お前の好きな素直なハトなぞじゃないよ、お前のような肥え太ったブロスターや豚どもさ。
鳥貴族。其れが、名前だ。頭の重い貴族さまにピッタリじゃねぇか。ああ、ぶどうジュースだぁ、そんな子供騙しみたいなのは好きじゃないね。この「騙」は辞書を繰っちゃいねぇ。
あいにく、あいびき肉。お前みてぇな忘却の天才さまと違っておれ様は成長の人なんだ。
緑茶が善いね、なんだっけ、変の国?剣の国?に迎え入れられた折にはサ。
道理、道徳のドレスは重くて残暑に堪えるでしょう。脱いでいらして、Tシャツに短パンでぶらり、宛てもなくうろつくのも樂しいですのよ。道徳貴族様。
馬術も善いが、話術はいかが?
女を追い回して口説くのも、どだい大先生のありがたぁい説法には敵わんとも、案外。あなたの案の外(ほか)、愉快ですよ。
志那みたいな、へんてこな名前の大先生へ。
島国根性、いまこそ猛れ。」
九月十四日 味噌汁の具
小男は依然、息をすうっと、吸ってまた例の前口上をいうが如くみえた。
しかし、続けた。
追信。
(この字は、信仰とかかっていたのでしょうネ、なぞと軽口をたたく小男に、サアヴィス精神で、笑ってやった。)
馬は善いですよ。鹿と違って。あくせく働いて、雌馬(読み方は、なんでしたっけ、先生。)の尻を追う。泥まみれで、しかし勝利の誉れを、生命の歓喜を体じゅうに巡らせるごとく震わします。
先生も、馬になっては、いかがかしら。差し詰めあなたの飯を運んでくる、働き馬からの勧誘でしょうか。
だって先生、馬なんて字を名前に入れてますもの。あら厭らしい。
ああ、貴族の大先生に馬に、詰る所ヨイトマケをさせんとす大偉人かしら。
読んでいる小説より、引用。
馬の話も、ただ競馬を見ていたら零れた、なにやらわからぬジュースに過ぎねェ。
泥のジュースを、資本論一冊のお返しに。
ああ、先生のように奇麗に締めくくろうとしても、正直カタギが治りませんです。
ページが汗で滲んで了いまして、敵いません。」
九月十五日 今朝はお豆腐。
小男は、語り終えると影法師が剥がれて、憑き物がすっかり落ちて、大役者はどこへ やら。うす汚ないただの坊主に戻った。
「ほうぼうへ言ってまわるのは、およしになってくださいね。次の奉公先に差し障りが出ますので。」
と、仰々しくおっしゃる。
「阿呆、こんな長いこと話して回っていたら、お前みたく私まで、クビになるよ。」
陽光が差してきた。煙に目が痛くなり、少し袖で顔を覆う。
袖を除けると、あら役者さんは、すっかりどこかへ消えた。
そのさまが舞台のカーテンみたいで、あまりに出来すぎた、一夜のペテン師の喜劇に、 ははっ、と一人、失笑した。
草かばね
ほとほと、厭になる。
文字は、書いた瞬間から腐っていく。図書館の本が読まるる度に汚れていくように。
青魚の如く疾く劣化す。
少し格好を付けて言って了えば、文字とは「花」である。
誰にも名を知られず、勝手都合に人様のベランダへ種を飛ばし、芽を出す無名の草。
図鑑にも載せる価値の無い花。
咲くには長けるけれども、結実することは稀で或る。徒花。
此の考えを延ばすと、図書館とは森、森で或る。
其の森には、様々、方々の草、果実、花どもが生い茂って居る。
艶やかな花の後、美しい実を付け、人口に膾炙されるもの。
日蔭でコケの如く、呼吸するもの。
果実と一口に云っても、無論、毒の果実だって有る。
併しそれは、アレルギィのやうなもので、コアラがユーカリの葉(ヒトにとって猛毒である其れ)を嬉々として食卓テーブルの真ん中に置いて、馳走とするように、云わば、体質のやうなものだと思ふ。
仮令きみが「この果実はおいしいぞ、」
と誰かに勧めてみれど、勧められた其の彼は嘔吐を催し、腹を下すかも知れ無い。
けれど悲しいかな、口にするまで、其の果実が毒なのか薬なのか分から勿いのだ。
ヴィヴィッドな桃色で、とげとげの、奄美でも無くば異邦の物であらふ、植物が、存外誰かのメランコリィの特効薬であることさへ有る。
西洋弟切草なんて物騒な名前の植物が、安楽作用が認められる様な事も有るのだから。