騾黒愛(Lark roa)

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蚕繭

 此処に一人、動物が居た。

この物語の主人公というべき、一人の人間が。

彼は全く恥の無い生涯を、十八年もの間送ってきた。罪悪を犯すことも、恥辱にさらさるることさへ、終始無しに。

 しかし悲しいかな、主人公が革命を齎すか、または他人に依って変へられぬ物語ほど、退屈極まりないものもあらず。悲しいかな、彼は見知りもせぬ誰かの手に因り、その運命の刑罰に処されるので或る。

 

 彼は父母に愛されていた、と言えばどだい、耳障りのよい心地であるが、ようは好かれる努力を、一切怠らなかったための、単純な結果でしか勿いので或った。

 「優は本当に、いい子ねえ。」

と言い乍ら微笑む母を見ることを、此れこそ至高の快楽と、信じていた。

併し、其の彼の心の鍍金も、すっかり剥がれて了う未来が彼を待っていたので或る。

 

ー水鳥と鴎が、魚の権利を爭っている。ー 

 

 彼はお頭の方は、如何やら他人より少々出来がよく、學門に於いて、躓くことは無かった。彼の知人は、

 「お前の成績が羨ましいよ、おれもそんな頭を持って居たらなあ。」

などと、彼を誉めそやしたもので或った。

彼が彼自身の知能と思考回路に依って、どれ程暗く、陰惨たる懊悩の中に身を投じているとも知らずに。

 

 教師は彼に、所謂名門大學への進学を進言した。

 「絹井、お前がこのまま、きちんと努力を惜しまず勉學に励めば、この學校だって夢なんかでも勿い。」と、彼は反す言葉に困った。

唖黙って居る彼に、不安の色を見つけた教師は、続けた。

 「不安なのも訳ない。私も絹井くらいの頃は、沢山悩んだ。だがな絹井。よい學校に入れば、後の未来は自分で自由に撰べるのだよ。髙い塔に一度登れば、総て街が見下ろせるように、飛び始めた白鳥が、どこへでも行けるように。」

そう言い終えると、教師は彼の元を離れ、職員室へと消えた。

 

 彼、絹井が黙って居たわけは、大學の名誉と栄光、そうして内実の乱れた風紀について、既に知っていた故で或った。其れ迄の十八年、制服と規則とに律され、また時には未成年の特権に守られてきた人間が、唐突にその鎖をとかれ、放たれる。

 例へば、外を知らぬ胎児が産道から放たれ、訳も分からず泣くように、孤児院から解放された孤児が、たちまち何処へ歩けばよいか、分からなくなるように。

詰まる所、混乱、錯乱に依って、大學のひとはきちがいの様に乱痴気をしたり、狂乱の不潔の様を呈するのだと、絹井の肚のなかでは結論づけていた。

 心情考察には、どだい自信が有ったので或る。

 

ー水鳥は絶ち、大地の上の魚の無為な跳躍の音のみ響く。ー

 

 絹井はまた、自らが信じて居るものを絶対視する主義と同時に、カメレオンのように都合のよい振る舞いが出来る器用さも持ち併せていた。

 訳の分からぬ冠婚葬祭の作法にも、よく従った。葬儀の折には、

 「優、もう寝ないのか。」と言う父に、異を唱え、朝まで寝ずの番をした。この蝋燭に火が灯って居る意味も分からぬ儘、風の無い室内で急に蝋燭が消えると云う珍妙なこともあろう筈が無い謂いも分かって居乍ら、ただ坐って蠟燭をじっと、見詰めた。

 親類の結婚の折に於いても、酔って昔話を大声でがなる、熟れきって腐った蜜柑達の調子に合わせて、興味を持つ素振りをしたり、下らないアドヴァイスめいた言葉達にも、諾々、粛々のフリをして、よいどれお化け共の御機嫌とりを卒なくこなした。

 

 絹井は大學というものを憎んで居乍ら、安寧に身を委ねる心地よさも知っていた。

父の様に、大學を出て、お国の為に働く役人さんの職を得れば、一生涯、其の身には生ぬるい悦びが約束される。悲嘆の涙も、歓喜の雄たけびもないが、どこぞの宗教が謳っている天の國とやらは、斯様に生ぬるいものなので或ろう。生ぬるさを神聖、神格なるものと心得、生きていく、其の考えも、彼にとって理解し難いものでは勿かった。

 だが残念なことに彼は、至高の悦楽と致死の苦しみを、其の身に望んでいた。

 

ー鴎来りて少しつつけば、魚の眼ふたたび生くるかな。ー

 

 彼は、一人きりで二日間の旅行へ赴く旨を両親に告げた。

「學校には言ってあるの。」と訊ねる母親に、「先生には傳えた。大丈夫。」と応えた。但し教師には、身内に不幸、と傳えたのであったが。

反抗、と言って仕舞えばノータリン學者の定義附けには都合が良いだらうが、あいにく絹井の内心には、大きく苛烈な欲望と、其れを満たすだけの精気が、彼を内側から破裂せしめんばかりに膨らんでいたので或った。

 いつもと同じ改札から、いつもと逆方向の、繁上華美の在る方へと、彼は向かった。

其の所以は、レールを外れた、或いは自ずからアウトサイダァとして生きる事を決めた、言って終えば、「肚をくくった」人間の生き様を、己の両眼に映さんとするがためで或った。

 家を出たのが夕刻でったため、お天道様が弱っていくに比例して、街には珍奇な、酔狂な、(と、世論で言わるるであらう)人がぽつり、ぽつりと駅からネオンへ、或いは古ぼけたコンクリートの看板の元へ、歩いていく。

 彼らの顔には、父とは全く異なる美しさが有った。

父の慇懃で、額に皺が刻まれた姿が、漢詞が含む静かで厳かな美、とするならば、ネオンの女のきらめきは、ジャズの調べの心地よさの美、とでも言えようか。

韻や字数の制限の中で上手くやることの易しさ、詰るところ制限の中での針通しの技術の精緻から生まれる美、対するは、自由で無限の音階の中から撰びとって、其れを魅せることの難しさ。詰まるところ制限の外、何処へでも行ける無限の体力とライセンスを与えられ、そこから手ずから摘んだ美。

 どちらも美しい、とでも書けば喜ばれること請け合いで或るが、生易しい価値観こそ身を滅ぼす。法律や規則に従うのは自分に考える能がないゆえ。エテ公から進化していない証左に違いなし。己から手を伸ばさぬことには、死ぬまで人に集る壁蝨の一匹に過ぎないのだ。

 そう、彼、絹井優は、其の岐路に突き当たって居た。

撰ぶことで得られる倖せと、撰ばぬことで得られる倖せ。何方に天秤は傾くか。

 併し、残念なことには彼の人生を面白がり度い誰かの見えざる手に依って、其の道を何方か、勝手に決められて了うのである。しんに神だの言うものが在るなれば、斯様に人を自由自在にもてあそぶ事が出来るものに違わぬだらう。

 

 ー鴎、魚を嚥めど、猟師の手にかけらるる。ー

 

 其の晩、彼は女を買った。

 女衒はいちいち、彼の歳など尋ねなかった。

 「旦那、好きな娘で遊んでください。」と言った決り文句でもって、介した。

 彼はその中から、もっとも醜く、みすぼらしい感じのする女を撰んだ。

歳は二十歳そこそこに見えた。年齢を訊く無粋さは、当然の如く彼は理解していた。

 「そいつにしよう。」と大義ぶって指を指すと、「こいつはありがたい。やつは…いや、素晴らしい娘です。さすが旦那。」と女衒が持ち上げるのでした。

女衒が何か言いかけているのに気附くと、益々、興がそそられる気持でした。

 女を連れて近くの宿に入ると、宿主も訳知り顔で、はい、はい、と手慣れたように、勘定を済ませました。

 部屋に通されるとすぐに、愛の言葉を囁き乍ら接吻しました。

「きみを見た瞬間、僕の心にバチッ、と電気が走った。」といった具合に。

女は泣き出しました、以前斯様に籠絡した折には、泣いた女は居りません。つっけんどんに突き離す、若しくは、よろこんで、と微笑む女。大きく分けて其の二つで或ったので、ははあ、女というのは斯様な生物なのだな、とすっかり了した気でいたのでした。

 此の、目の前の醜女は違いました。泣き出したのですから。へどもどしている彼に、

「ごめんなさい。私、人に愛しているなんて、言われたことが無くて。物語や御伽噺の中でしか、戀なんて私の人生には無い、って思っていたものだから。」と、鼻水をすすり乍ら、ゆっくりと言いました。

 新大陸を発見した異邦人の喜びが、彼にもようやく分る気持がしました。

抱擁して、また接吻をしました。

 「きみが謝ることはない。僕はきみにすっかり惚れた。君は美しい。」と言うと、

女はかぶりを振って、「そんなことありません。げんにあの娼館の中で、私が一番のぶさいくです、あなたが何故、私などを…。」と続けました。

 彼は得意になって、言いました。

「いいかい、女の美しさは顔じゃあない。ではどこか。」と尋ねると、

「胸や尻の美しさですか。」と蓮っ葉女は訊くのでした。

其の素朴がこぼれたばかりのルージュに、接吻しました。

そうして、醜女の腫れぼったいまぶたの目を見つめて、ダンディズムの限りを尽くし、

「女の美しさは、心だ。」と尊大に言いました。斯様に多弁に成って居る所以は、此方次第で如何にでも出来る関係、詰り圧倒的権力差がある故なのでした。

彼は譜段は衝突を避けるため、一種の逃避行動として議論や論争めいたものは嫌っていましたが、絹井も動物の性からは逃れられませぬ、強者が弱者を屠殺するのは自然の摂理なのです。

「うれしい。」と頬を赤くする女の無知無學さに、気が参りそうでした。

人は蓮っ葉、などと罵りつつ、蓮の花を神聖視したりする曖昧模糊な生き物、と思っていても、蓮の葉の真の美麗に気附くとき、己も其の混然たる曖昧の中にいたのだな、と気附かされるでせう。

 其の晩何度交わったかは、数の数えられぬ莫迦な女しか知りません。

 

 二人で湯船につかり乍ら、彼はこの興奮の儘に、ある頼み事を女にしました。

自らの名誉と潔白とを、いっぺんに無に帰して了う、頼みを。

女は初め、其の提案には異を唱えていましたが、彼の熱弁詭弁、そうして極め附けには、彼がぶ厚い札束を見せたことで、しぶしぶ承諾しました。

此のお金は、どこから、と訊ねる女に、証券でもうけたあぶく銭だよ、と絹井は応えましたが、事実は違いました。女衒から、この女をもらってくれ、と頼まれていたのです。

 「旦那、こいつをもらってやってはくれませんか。いやいや、結婚だなんて言いませんよ、如何も客がつかなくて、ごくつぶしなんです。むろん、ただでなんて申しません。もらってくれるというなら、相応の謝礼金を…。」

 其の言葉に、正義だの、法だの、女の権利だの、言う丈け奈良誰にでも可能でせうが、果たして目の前に女と金が同時に手に入るスイッチが有れば、どれ程立派な政治屋、宗教奴隷、法律家先生でさえ押して了うに相違有りません。

 「分かった、うちで引き取ろう。」と直ぐに返しました。返事は疾く、大きく。

教師の教えが初めて役に立ちました。同時に、「人の為になれ」という父の金言も無事に、達成することができました。ああなんと素晴らしい心地でせう。

 

 斯様の訳でこの女は、何も知らぬ儘この宿へ来たのです。再び娼館に帰られると、愚かにも思っているのです。

悲しいかな、女はレールを外れて了うと、取引の材料にまでされて了うのです。げんに、目の前のこの醜女が証左になり得ませう。騾馬扱いされようが、知力、権力、筋力。この一つも持たざるものは、総て等しくいずれ賢者、帝、暴力集団。それぞれの道具になり下がるをえないのです。

 

 併し、この絹井という男は、あいにく、そのような支配行為だけで快楽を得られるような小さな器の持主ではありませんでしたので、件の、頼み事を女にしたのです。

絹井への最大の汚辱、凌辱、侮辱であり乍ら、同時に女の優位性、権利の回復、ヒトらしさの最大の尊重。それらが一気になされる方法が、一つ丈け。絹井はそれを願いました。

 

 風呂から上がると、絹井は蒲団に仰向けになり、

「それじゃ、頼んだ。」と言うと、女は絹井の上に跨り、吉舌を絹井の口に、ぐりぐりと押し付けました。そして、「噓吐き、莫迦、フーテンのやくざ者。」と悪罵します。

斯様な事を約半刻ほど行うと、女は腰を上げ、絹井の一物に小便をかけました。其の後、血が出るほど強く、其れを擦りつけました。

 「やはりきみを撰んで良かった。とても素敵だ。」と言う絹井、女は彼の頬を平手で殴ちました。それから、また悪罵が始まりました。家畜、エテ公、娼婦の息子(女は娼婦の意味さへ知りません)など、方々の呪いの言葉が加えられた後、

 「もう、よいですか。」と、ふと女がしらふに戻ったように冷めた調子で言いますと、「訊かないでくれ。頼んだのは、其の様な態度では勿からう、もっと厳しく、粛々と、冷酷たる態度で或れ、と言った筈だ。その様な良心めいたものこそ、快楽淫蕩のエデンから追放さるるべき、蛇だ。」猛った男は続けた、

 「きみがこれからする行為は、きみを間違いなく倖福にする。其れで僕の方でも、この行為をもって、至極の悦楽、ああ、すまない、とてもうれしいという事なのだよ。善は急げと言うのはこのことだ。さあ、早く二人で倖せの中で絶頂しよう。」

 「わかり、まし…。ぐちぐちうるさいわよ、金魚の蠅、リンゴの糞。」と女、その目には、もはやかつて男だったものは映っておらず、變わった形の金塊のみが鎮座していました。

 女は再び、絹井の口の上に跨ると、こんどは菊座を押し付け乍ら、絹井の脚のほうへ、身体を伸ばして、右手には一物を、左手にはカミソリを持つと、バイオリンを弾くように優美に、ゆっくりと一物をカミソリで撫ぜ、絹井が呻吟する毎、その股を息も出来ない程強く、押し付けました。

 芯のある堅い柱が切れると、絹井は失神しました。女は取りも乱さず、ああ、こういった具合なのだな、と、豚の解剖でもするが如くでした。あっさりと、男なんかこうすれば抗える、強い振りをする弱い生き物なのだ、と女は知りました。

 そうして、絹井を揺すり意識が戻ったと見るに、そのバイオリンの絃をぷつん、と引きちぎりました。絹井は満面の笑みを浮かべ、また気絶しました。

 その後、言いつけ通りに殖栗を噛みちぎりました。人に犬歯がある理由を、このとき女は初めて知りました。その後、口に含んで其の脈動を味わった後に、咀嚼して嚥下しました。アイロニカルな事もあるもので、この女は今まで、動物の肉と言うものに与かること勿く、粗末な米と汁のみしか、口にしたことがありませんでした故、世俗の人間の食文化の中で、最後と最初を間違えた様な格好と相成りました。

 殖栗は温かく、嚙み応えがあり、こんな美食にはじめて与かった女は、内心驚きでした。真坂同じ種族の中に、米より更に美味しいものが眠っているとは、だから皆、服を着て隠しているのだな、と女は合点しました。

 併し、ぼうっとしている訳にもいきません。最後の仕上げに取り掛からねばならぬ女は、何度も平手打ちをして体を揺すり、やっとの思いで絹井、いいえもう只の人形です。何の価値もない、道具としても使えない、取引の材料にすら成れない。そんな傀儡を起こすと、首に手をかけました。

 

 手から傳わる脈動、肺病の様な呼吸音。びくびく、と痙攣する皮膚。

遂に、女はぐいと力を入れると同時に、レクイエムを捧げました。

「傲慢、怠惰、偽善、自己陶酔、娼婦の息子、落ちこぼれ、自堕落、淫蕩、壁蝨、」

「犯罪者、犯罪者ーー。」と大声で怒鳴ると同時に、玩具は完全に壊れて了った様でした。

 や、やれた。

何をしても出来勿い私が、初めて人の頼み事を出来た。やりのけた。

直ぐに衣服を身に纏い、絹井の持ち物を総て鞄に仕舞い、其れ丈けを持って宿を後にしました。

何とも言えぬ高揚感で、一連の成功を早く娼館のお兄さんに傳え度い、と駆けて娼館へ帰ると、女衒は、

 「おい、お前の居場所はもう此処には無い。先刻の旦那さんがお前を買ってくれたんだよ。」と背中を向けて目も合わせずに言うので、自らの手柄を傳えうる能わず、娼館を後にしました。

 

ー鵜とならば 骨も残さず 飲み下すー

 

 教壇に立った教師が、朝礼の最後に言いました。

「絹井が、旅行先で不幸な事故に遭って亡くなった。黙祷。」と言い、教室の中はたった一分のみ、静寂が支配しました。そののち、教師が去ると、方々で生徒たちは、

 「なんまんだぶ…」「よせ、よせやい」「先生に聞こえるぞ」「花買わなきゃね」「え、死んだ奴の為にこずかいは使えない。」「確かに。」「確かに。」「確かに。」

 

 ご機嫌取り、賢こぶり、マザコン、唯一の中卒、最速合格、その他様々な罵詈雑言と皮肉が書かれた机は、翌日の朝には教師の手で廃棄され、清掃業者が分解して、如何なる思いも無く焼却炉へ投げ込みました。

 

 絹井の父母は、宿屋から連絡を受け、警官立ち合いの元、本人と確認しました、併し事件とあっては父の地位と名声に伊佐坂不利益を被るため、警官に僅かばかり、おひねりを遣ると、「事故」と書類に認めて、署へ帰りました。警官はその夜、あぶく銭でたらふく、ご贔屓の酒色にふけりました。

 裁判官や検事にも、いくらか握らせて、遂に解剖医が来ることさへ勿く、葬儀屋がやって着ました。

 葬儀屋はうやうやしく金を受け取り、坊主も金を受け取り、葬式は父母の二人のみで行われました。密葬の最中、母は泣いていました。さめざめ、およおよ、なんと表現し得ませうか、叫びと思わるる程、烈しく。期待の、良き息子の惨殺遺体を見ては、又、噎び泣くのでした。

 一方で、父は満足げでした。自らが口を利けば、多少のことは問題が無いのだと云う事実を、実体験で以て知られたのです。喜ばずに居られますまい。

 坊主と葬儀屋は、葬儀が終わると直ぐに、久々の大きな実入りの喜びに浸り乍ら、突き合って果てました。

 

 絹井優の死は、人を倖せにしました。歴然たる事実です。

彼は死ぬべきで勿いだとか、期待を裏切っただとか言うものが有るのなら、その人はきっと、ハッピークラッピーか彼の母親かでせう。

 

 そうして、もう一人、倖せに成った人物。

首相と寝食を共にし、時折大臣や関係筋との信頼構築のために「仕事」をする。

豪勢な肉、魚、ありとあらゆる物を食べ、併し満たされず、時折「外食」に出掛け、

おこぼしを運転手に拭かせ、邸へ帰ると、首相は

「また出掛けてたのか。俺ではだめか。」と問うた。

「だめね、私、今はどんな男よりも強いの、ただ一人、敵わない愛すべき最高権力者を除いてね。」と微笑と共に返す。

「ああ、確かにそうだな。お前より偉い俺は、どんな人よりも強いか。」と首相。

一拍の後、

 「残念ながら、それは無いわ。男は結局、女の手段、計略、奴隷や騾馬。寄生する壁蝨に過ぎないの。」と返す。

 「おお、愛し君よ、日に日に成長する罵言、素晴らしいよ。」と言い乍ら、首相が接吻を迫ると、

 「待って。絹井って人、今度会わせてよ。」と遮るのでした。

 「いいとも、彼は盟友だからね、お手柔らかにね。」と言う首相を見て、

 「如何かしら、私がもしも男でしたら優しくして差し上げたかもしれないわね。」

二人は涎まみれになる程、烈しい接吻を交わしました。