騾黒愛(Lark roa)

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齢、十五

 十五の頃、私はしんに清かった。
聖典で語られる赤子のように、阿呆で或ったのです。
己に纏わりつく厭な縄、千切られることの勿い鎖、そうして、其の身に科された不定期刑にさえも、鈍感でいたのでした。
 つまらない黒い髪を、ただただ伸ばして、服からは見えないどこかの体毛でさえ、茂り放題で或りました。
恥ずかしいことでは勿いのだ。なぞと其う書き置いて了う己の醜さに、嘔気を催します。
 今よりも十キロ以上も太って居て、(成長期、なぞという文脈の話ではないことに留意されたい。)
ようは、現在の美醜に囚われて生きている私とは対極のような生活を、送って居たのです。
 
 知らない事、気附かぬことの美徳など、知る由も勿かった。
寧ろ、様々なことを知っている人間、博学、物知り、経験豊富、其う云う者に、憧れさえ感じていたのです。
その愚かさ、無知蒙昧かげんが如何に素晴らしく、取り戻すこと能わざるかなど、考えもせずに。

 

 自由なんという、重い呪縛に思いを馳せてみたり、さらには「自由が慾しいよね。」などと級友と語らうことさへ有りました。体が大人に成ったら、腦も精神も共に成長して、立派な華が咲くと愚かにも信じ込んでいました。ザ・フール。
 蕾のままでいつまでもいられたら、如何程に倖せか。己の大事な種子や花弁を、独り抱きかかえた儘、終ぞ土に還られたら。その実を啄まれることも、蜜を吸われることもなく、一つ静かに枯れることができたなら。
 純潔、ヴァジニティの麗しさ、奥ゆかしさ。出ない杭の安定度。
巻き戻しの出来ない一生で、間違ってゴミに棄てて了えば二度と、手に入ることのないもの。

 今更になり、その美しさに気が附いたのです。


 自由の残酷さに気が附いたのは、十六になってからでした。
決める事が出来ると云うのは又同時に、決めなければならない、という不自由の鎖で繋がれているのも同義なのです。
 道が一本しか無ければ、其の道を行くだけですが、道が四方八方に伸びている所為で、人は迷い、悩むのだと、段々よ自由、という言葉のネグレクトさに苦しめられる様に成りました。
 もう大人、と突き放され、放り投げられる不安。明日をも知れぬ末恐ろしさ。

 不安で仕方なくて、私はひとつ、道を決めたのです。


 夜の蝶、とでも言えば耳障りは伊佐坂良いでしょう。しかし、蝶の様にひらひら舞ったり、おいしそうに花弁を舐めとったり、そんな悠々自適なものでは在りませんでした。
 所謂、サラリーマンに求められる様な常識や、マナーやモラル、その他方々の作法をしっかりと、サラリーマン以上に、求められるのです。持たざる者は、棄てられる。使い潰されるさだめ、なのです。
 「あの子、感じ惡い。」「挨拶ができていない。」「礼儀が一番だから。」
何人の蝶がくたばったかなど、研究者もおりませんゆえ、言葉通り、無法地帯なのです。
 蝶だの花だの、表現する方がおられますが、其れは、幻燈の幻覚に酔っているに過ぎないのです。
誰も、咲く前の花、羽化する前の蛹なんて、慾することはついに勿いのです。
 
 それでも未だ、己の阿呆さを信じたくあらば、昼の私たちをしかと見てごらんなさい。
蝶によく似た毒蛾です。模様が綺麗なだけの、よく似た全くの別者ですから。


 今も、他人の為に染めた栗色の髪を見るたびに、日々、擦り減っていく靴底とヴァジニティを憂います。
他人に教えられて整えられた体毛、何処に出ても恥ずかしくないように手術をした顔。実利の仮面。
 ときどき、私は誰なのか、アイデンティティが崩落しかけます。その城壁を、粉やクリームで埋めて、如何にか斯うにか、取り繕って居るのです。
 
 一度焼けた寺社仏閣が、二度としんに元の姿形に戻ることが絶対に勿い様に、よく似ております。
私はついに、自我が継続して居る事実すら、あやふやに成って了って、いいえ。自分から、あやふやにして居るのです。
 十五の頃の自分を汚らわしい、不潔、だの罵って、他人の振りをしているのです。
しかし大元を辿れば、十五歳のヴァジニティを直視出来る程、強く勿いのです。
直視して了ったら最後、自己嫌悪の無間地獄に突き落とされるでしょう。其の眩しさに眼を灼くでしょう。
 
 変体、変身した積もりで居ても、十五歳はじっと、此方を見ているのです。
「私が望んだ自由の果てはこんなものなの。」「私はもっと自由に羽搏いていくはずだった。」
 夢枕で告げられた折には、何も言い返せずに、唖黙って了いました。


 「すごい、私じゃないみたい。」
そう、其れこそ、総てで或ったのです。
 「似合っているよ。」「可愛いよ。」「好きだなあ。」「素敵です。」「綺麗だ。」
そんな言葉の濁流に押し流されて、離岸流の如く、気附くともう、岸は遠くに靄がかかってゆきました。
 他人に必要とされる、其れが倖せだと、勘違いし続けて了っていたのです。しかし、いい加減にもう、其の言葉たちの裏の目的くらい、容易に判ってしまうほど、いやに賢く成ってしまいました。
 ニーズとサプライは、凸凹の様に規則正しく当てはまるパズルではありません。
どちらかが、形を変え乍ら、如何にか見かけ上はつつがなく、過ごすものなのです。擦れて、諦めて、そうしてはじめて、人と人との間柄は成り立つ、そう思うのです。
 そう考えると今まで私は、諦めて、削れ過ぎました。其れも、自我同一性の断絶に繋がっているとも思えます。
「私は、別に大丈夫。」「心配いらないよ。」
幾つの言葉で、身体を、腦を、自我を、削ぎ落して来たのでしょうか。
なだらかな平地の様に、他人様が歩きやすいように削れて了った腦味噌では、如何も、数え切れません。


 鳥は飛ぶために身体を軽くして、無駄なものを削ってやっと、空を飛べる様に成った、と聞きます。
人として生まれて居なければ、私はきっと、大空遥か羽搏く鷲にでも成れたのでしょう。
なんて、シャレの様な無駄言を吐いて、又、自分自身から逃れようとして居るのです。
逃げたい。其れが、本心なのです。

ー何もかも投げ捨てて、いっそ。ー

 と考える度に、如何にか無理矢理洗い流して、見えない所を洗うように、肌が荒れてもお構いなしに何度も、擦って。
磨いたところで原石のころの素朴は、終ぞ現れないのは百も千も承知ですが、逃避、心だけでも何処かへ旅でもさせるような姿勢で勿いと、とうとう、気が触れて了うことは、私にだって判る気がするのです。


 自由、と云う課題に対して、私が出した答えは、噓と虚飾。
正解でも不正解でも、構いません。再提出は叶わないのですから。
 
 野山を駆けて、流れに漱いだ十五歳。自由を信奉していた其の美しさ、阿呆、白痴。
其の姿を、陰から覗く化け狐。いずれは猟銃で撃たれ、殺される事を知り乍ら、「私は知らない。」と下手糞な噓をついて、遠くから、振り向かれない様にじっと、十五歳を覗いているのです。
 天や神や悪魔や獣の類で勿く、自らが科した刑罰に、今も科されているのです。
不定期刑。いつ終わるのか知れぬ、噓吐きの小喜劇。
本物のトラジディは、棄ててもまた、還ってくる。量が増す計り。

 ダイアモンド、エメラルド、アイオライト、ルビー、ラピスラズリ、なぞ総ての「宝石」、と呼ばれる者どもは、
殻の中で熟成される、歪んだ形の真珠の美しさに、一切合切、敵うことが勿いのです。