騾黒愛(Lark roa)

larkroa@gmail.com

酌婦と酔醒

 朝とも夕方ともつかぬ光に、瞬きで挨拶をする。

又、来たのかね。などと、曙光に嫌味を言いたくもなる、頭がずきん、ずきんと痛む。

アスピリンがあったかな、と暫く蒲団の中でもぞもぞする。薬棚を見に行けば、すぐに答えが判ること位、分からなくなる程は耄碌していない自負があった。

 冷凍室の野菜のように、縮こまった身体をぐう、と伸ばし、毛布を剥いで薬棚のあるキッチンまで来た。

 アスピリンは、一錠丈け有った。一錠しか無かった。

飲んで了うと明日の休日に買いに薬屋か、と思うが、背に腹、頭痛には代えられまい。

シートからぱちん、と一錠出すと、コップに乱雑に水を注いで飲んだ。

 

 この頃は、酒とのお附き合いが多いのだ。そのせいで、毎朝。

いいや、その泣き言は職業選択の自由が一応ある以上、余りに自業自得といえて了う。

撰んで了った。そう言って稚児の様に泣き出して総てお終いにし度い慾が、時折不定形のばけものの様に、わが身に覆いかぶさる。

 

 ネオンライトが靄の中でとぼけて、景色が泣いている夜。

街へ。

 「おはよう御座います。」

こんな時しらずの挨拶にも、すっかり慣れて了った。

 「おはよう。」

そう此方へ返すのは、このキャバレー・クラブの長、みず紀さんで或る。

歳のころは四十がらみといった所であるが、こういう商売特有の、しわがれ声は持ち併せず、いつも凜として、所謂「かたぎ」の様相を呈している。

 私はこのみず紀さんに恩義があって、此方に籍を置かせて頂いているのだ。

 

 床に埃が無いように箒をかけ、革張りの椅子をクリーナーで拭く。

すっかりルーチンワークとなった仕事が終わると、みず紀さんはいつものやうに、

 「ミンちゃん、お疲れ様。煙草吸ってきなさい。」

と、ボトルに安酒を注ぎながら、言うのであった。

 ミンちゃん、と言うのはみず紀さんが附けて呉れた綽名で、私は本当の名前よりずっと、こうして呼ばれる方が心地が良かった。

 店の外に出て、まだ行き交うサラリーの人を遠くに見乍ら、煙草に火を点けた。

煙とため息が、一緒くたになって口から出て行く。

 肺にしっかりと毒を詰め込む、しっかりと。別に死に度い訳ではないけれど、ずっと此の商売で生きていけないこと位、分かっているのだ。

 もう、譜通、通俗の倖せなんかには、手を伸ばす気も起こらない。

今は只、此の煙の味の様に、同じ生活が、毎日が、刺戟の中で静かなる揺らぎを繰り返して、いつかは立ち上って消えて行かれればそれで良いのだ。

 

 それで、良いのだ。

煙草を私に教えた奴の顔をふと、思い出して、急いで煙草を捨て、踏みつぶした。

 「ミンちゃん、ちょっと。」

ガラン、と扉の音とともにみず紀さんの声がして、流石だな。と感心する計りであった。人が哀愁に足を踏み入れるタイミングを、みず紀さんは靈感めいたもので察知するのだ。

それが、きっとこの人が社会の渡り方として身に着けた、所謂処世術めいたものであることは明白であった。

 

 灰皿、グラス、焼酎の準備が終わると、いつも暇になった。

街灯が少しずつ灯りはじめ、お天道様は知らんぷりをし始めた。

 こういう時、私とみず紀さんがするのは、サイコロ博奕であった。偽物の博奕なのだけれど、本意気で、という制限だけで、金なんて無くても人は愉しめるものよ、と言ったみず紀さんに騙された積もりが、ここまでダラダラと続いている。

 「私、ミンちゃんとだったら、どこでもやっていける気がする。」

 「いやですね、こんな小間使い一人でどうやって…。」

いつもの冗談だと流し乍ら、手の内のサイコロは震えていた。

 何に震える。我が手よ。

 

 暫くして、このクラブの従業員がぽつ、ぽつとやってきた。

今日の出勤は、三人。優希さんと、未来さんと、ユリカ。

小さな店には、其れ丈け居れば、十分なのだ。増して、もう大繁盛はこの街では出来ないことを、少なくとも私とみず紀さんは知っていた。

 時間より少し早く来たのは、優希さんで或った。

 「おはようございます。」ときちんと挨拶ができるのは、彼女が元々勤め人であった何よりの証左たりえるだらふ。

 「おはよ、」とみず紀さんは小さく言って、今日の客の予定やら仔細を話し始めた。

優希さんはこちらに気附くと、小さく目礼をした。私も返した。

 

 私は、優希さんに劣等感を感じて居た。

嫉妬なのだろうか。優希さんは大學を出て、○○歳(都合により伏字)までしっかりと、会社勤めをしていた。エリイトなのだ。そうして、そういう空気をおくびにも出さない。鼻にかけることもしない。穏やかで、包容力がある。

 子供の時分に読んだ児童文學の、ヒロインの現代版なのだ。

此の人のお蔭で、店が傾かないのは疑うところが無かった。

 

 ガララン。また一人、出勤してきた。

眠そうな顔で、あくびなんかして。

 「みず紀さん、聞いてよ。昨日の客アフターアフター、って本当しつこいの。」

未来さんだ。未来さんはよく喋る。口と腦がきっと一本の管で直截繋がっているのだ、と一度皮肉めいたことを言ったら、気に入ったらしく、来る客来る客にすぐその話をする。

 「そう、この子、この子が言ったのー。」とだらしなく語尾を伸ばし乍ら私の方を指さす未来さんが、いつも思い出される。その度ごとに、私はおたふくの面を被るように、さっとインスタントの笑みを浮かべるのだ。

 未来さんは、正直に言うと余り男が好む類の顔ではない。身長も高く、さらにヒールを勿論履くのであるから、さらに高い。併し抜かりなく手入れされたブロンド・ヘアと、決して剥げているのを見たことが勿い爪を見るに、未来さんも又、順応力とか適応能力だとかいうようなものが、きっと高いのであろう。

 「ミンちゃんは~」と未来さんが急に言うので、適当に微笑んでおいた。

 「もう、みず紀さん、ミンちゃんテンション低くない?」

そう言いながら、控室に消えていったその後ろ姿には、甘だるい香りが纏わりついていた。

 

 そうして、やがて開店時間になり、正面の電燈のスイッチを入れる。

一人来ていない。併し誰も、特に話題にしなかった。ユリカの遅刻は、いつも通り、お決まりの事である。

 みず紀さんは店で待機して、優希さんと未来さんは、小路へ出て、

 「お店お決まりですか。」と声を掛ける。

私は二人が危ない目に遭った時の為に、それぞれが見えるように立って、又煙草を吹かす。

鬱陶しげに顔をしかめるサラリーマン。手を顔の前で振る失業者風の男。

大声で囃し立てる赤ら顔の學生たち。

 

 「そんなに私たちが煙たいか。噓と愛慾に溺れてこそ、人間だろう。」

こんなとき、いつも斯様な演説が腦を掠める。良かった、若し腦と口が直截繋がって居たら、今頃牢屋か乞食だ。

 煙を喫むと、むせた。

 

 「ごめんなさい、おくれました。」

来た。ユリカだ。決まってこの時間に来るのだ。二人が外で客を引いている時間でまだ助かった。ユリカとあの二人は、所謂「グループ」が違うのだ。

ユリカだけが、少し異質なのだった。

 煙草を咥えたまま、能面を張り付けた顔でドアを開けてやる。

 「いらっしゃ、ユリカちゃん。もう遅いよ。」みず紀さんは𠮟らない。笑って赦すのだ。

 「きょうはね、タケムラ社長が八時に来るのと、えっと電気の会社のあの…、」

 「アズマさん。」と私。

 「そうそう!ミンちゃん記憶力すごい。」と目を輝かせるユリカ。

 「えっとあとねー、」と続けるユリカ、メモをとるみず紀さん。

 

 ユリカの瞳。私はあれが堪らなく憎いのだ。

あの瞳が、幾つの失敗を、幾つの迷惑を、無かったことにしただろうか。

ユリカは、私たちの武器の使い方をよく心得ている。喜怒哀楽を全面に押し出し、忌憚なき意見を率直に述べる。

 私や優希さん、未来さんが生きる上ですり減らして来たものを、ユリカはきっと、揺り籠から保育園から小學校から、ずうっと大切に磨き上げてきたのだらふ。

 私は、ついに其れを得られないまま、流されて生きて来て了った。

ユリカは私よりずうっと年下である。しかし愛されて来た者は、愛されなかった者よりきっと成長が早いのだろう、此れもきっと、自己弁護の言い訳のひとつに過ぎ勿いだらふけれども。

 

 「それでは、出てきます。」と、平静を装い、ガランとドアを閉める。

少し強く締めすぎたかも知れない。みず紀さんよ、どうかお気になさらず。

 

 未来さんが、遠くから合図をした。

隣には、如何にも好色そうな四十くらいの男。二人はゆっくり歩いて来て、看板の前で立ち止まった。

 「この料金はちょっと、高いんじゃないの。」

男は酒臭い息を吹きかけて言った。こういう際に、私に強大な筋肉があればな、と夢想する。そうしたら、この吝嗇男に肘鉄でも喰らわせて、無理矢理店に押し込むことができるのに、なんて。やくざめいた考えが私の腦をよぎる。

 「ええ、でも今日来てくれなかったら、次私…。」未来さんが目配せをする。

 「そうですね。未来さん次は来月でしたもんね…。」と私が、いやミンちゃんが返す。

 

 いつもの作戦は矢張り巧くいった。

こういう男はきっと、歪んだ正義の名の元に立ち度いのだ。この子のためだとか、この子の瞳にやられただの言うて、結局はワイセツで助平な感情をぶつける相手を探しているのだ。ケチをつける客ほど、むっつりに違いないので或る。

 

 こうしてお客が来たので、優希さんを呼んできて、私はみず紀さんの元へ戻った。

ガラン、と今度は努めて小さな音でスマートに開けて、優希さんに準備をお願いして、控室に送ると、さすがみず紀さん、もう一杯目を出している。

 未来さんが慌ただしく準備を終えて、(準備という行為の仔細は、聞かぬが華。)

卓に着くと、

 「いや、はや。モデルさんみたいだね。」

と男は未来さんを褒めそやした。ああ、男はいつから、媚び諂うことで女の機嫌を取るようになって了ったのだろう、いや、これはもしや杞憂で、もしやアダムもイヴの奴隷だったかも知れ勿い。

 「そうですかー、それ他の人にも言ってますよねー。」

このような生温い会話の後、未来さんは男から指名を得た。

 「やりましたよ!」と小声でガッツポーズを見せる未来さんは、大人だけれどどこか子供で、私がもしみず紀さんだったら、そのブロンド髪を乱さないように優しく頭を撫でていたように思う。

 

 ガラン、と扉が開かれ、恰幅のよい大男が立っていた。

時刻は八時になっていた。あれから、フリーの冷やかしが二組ほど来て、ユリカも優希さんも、実入りの少ない時間を過ごしていた。

 「あ、タケムラさーん。」と嬌声を発した主は、ユリカで或った。

 「いつもご贔屓にしていただいて、どうも。」とみず紀さん。

 「こちらにどうぞ。」と、ミンちゃんこと私。

 

 社長のタケムラは、角の席でないと嫌がる。隅っこ暮らし、と裏で綽名がついている。タケムラはキープの焼酎とアイスペールにいっぱいの氷、そうしてグラスを持っていけば、後は特に何も言わない。わりと好感が持てる客で或った。都合がいいからだ。

タケムラ社長が来ると、ひとまず安心、と言ったくらいには、遣う物は使って呉れる男だった。

 

 ユリカは社長の隣に腰かけると、慣れた手つきで社長のシガレットに火を点ける。

こうされると、ユリカを器量よしか何かと勘違いして了うタケムラや他の客の気持も分かるような気がした、気がしたのが又、むしゃくしゃした。

 ユリカの「すいませーん。」と言う声が響く。まったく、タケムラのように水割りでも飲んでいればよいものを、又シャンディガフなんて面倒なものを。

 その表情は、きっとタケムラのくゆらすシガレットの紫煙で隠れていたように思う。思い度い。

 「失礼いたします。」と跪き杯を差し出す。なんと皮肉な。こんな小娘に。いけない、この考えはまるで童話の醜い魔法使いのようじゃないかしら。あな恥ずかしや。

 

 何度かの延長をして、タケムラ社長はどんどんご機嫌になって、

「鳥渡、甘いものを何か、買ってきてくれ。」と私に言いつけた。

かしこまりました。と粛々と申して、上着を羽織るのも面倒で、そのまま外に出た。

近くの商店で駄菓子を贖い、余った釣銭は呉れてやるというので、明日の分の煙草代が浮いた。

 

 「お待たせいたしました。」と告げ、レシートを盆に載せて差し出す。

捨てておいていいよ、とタケムラ社長。

ああ、よい。こういう傾奇かたが、私は好ましく思えるのだ。切ない小市民、社長といえど世襲の三代目。虚栄心と嘘と慾。この男は、夜を渡るのに必要なエッセンスが何たるかを理解している。

 人間的、あまりに人間的とは、このようなことでなかろうか。莫迦の早計。

 

 しばらくすると、電気屋のアズマが扉を重そうに、重そうに開けて入って来た。

アズマはひょろりとした、狐みたいな男で、噂では所帯持ちらしい。

 「あ。あの。」

小さく尋ねる声で、やっと気附いたのか、ユリカが大きく手を振る。タケムラ社長の隣にいることを忘れているかのように。いや、忘れているのか。こういう刹那的なテクニックで社会を乗りこなす人間には、忘却の能力が絶対資質として有る。

 世の中。カードを出さねば不戦勝なのだ。誰かの言葉。

 

 アズマは狭い席に落ち着くと、ビイルを頼んだ。

知っている、この男は酒がつよくない。ユリカも、どうやらそれは覚えている様子で、タケムラ社長の横に坐っていた時のような頼み方はしなかった。それでも、ねだる術は熟知していた。

 アズマは声が小さく、煙草も喫わないので、肺病患者の様で或った。

その様子は、一日外出が許された患者が、病院に気附かれぬように、鳥渡飲んでみる、といった具合である。

世帯持ちというのが本当なら、ある意味ではこの喩えは的を掠めているのかもしれぬ。

 

 アズマはワンセットできっかりと帰り、タケムラ社長はタクシーを呼ばせて、帰った。ふらり、とよろけそうになるタケムラ社長を、ユリカと未来が支えた。

 優希さんは、後ろで小さくお辞儀をしていた。

 

 電燈を仕舞って、今日の営業は終り、勘定が始まる。

照明を落した隅の一角に、酒の匂い帯びた五匹、群がる。

はー、疲れた。と未来さん。すました顔でタケムラ社長のくれたチョコレートを頬張るユリカ。そうして、今日は何だかうまくいかなかった様子の優希さん。整った眉を少し歪め乍ら、ピアノ指から火がちらり。

みず紀さんが手早く、そうしてお互いを気遣って、見えない様に封筒にそれぞれの日当を入れて、手渡す。

 そうして、私の手にも。

 

 まだまだ此方を睨む月に照らされて、酒屋で一本ビイルを贖う。

家に帰ったら玉ねぎでも炒めて一杯やるぞ、なんだか今日は、考えすぎた。

考え度くないから、同じような日々を望んで、不変を愛しているのに。

 

 テーブルの上のコップに浮かび消える泡を見ながら、

この憎しみと、愛しみと、汚さと綺麗さが、続きますよに、と願った。

大人になった、願うのは流れ星にでなく、ビイル瓶の星に、だ。

 

アスピリンを贖い忘れた。今日はもういい、明日起きる理由が出来たと思えば。