静岡県のただだだっ広い畑で、女は産声を上げた。
生来のものとされる左ひざの大きな痣は、このころから有ったもので或る。
女はある種の霊的なものを感じさする頭脳の出来で、易々と様々な試験を突破した。
あまりに賢いもんだから、集落では「キツネさん」とふざけて呼ぶものもあった。
キツネさんは次々と男を籠絡した。くちの遣いやうがうまかったのである。
さうして、絵描きの男と懇意になり婚姻し、都会に降りてきた。
キツネさんの都会での評判は、様々であった。
「あんまり、賢すぎる女ってのも、案外みっともねぇもんだよ。」と土方は言う。
「こう、男の半歩後ろをさめざめしく歩いて、すぐ泣くやうな女が一等だよ。」
商人の嫁は、挨拶をしにきたキツネさんに、
「まあたいそう利発そうで奇麗なお方。余程前世の行いが善いんでしょうね。」
と皮肉った。
キツネさんと絵描きの旦那は、茶も飲まずに帰った。
絵描きの旦那はアトリエに籠りきりで作画をするきらいがあった。
それをキツネさんはたいそうきらいであった。
キツネさんはよく、おでん屋台へ出かけては、店に赤が出るくらい、顔に紅もださずに酎杯をひっかけた。
当然、女が独りで飲みにくるなんてことは、大変な事情があるものだろう、と皆、訝しみ、わざわざ声をかける者も無かった。
屋台の客の内では大将に、
「あのキツネさんってのは今日はこないのかい?あんなパトゥーティが大酒喰らってるさまもなかなか乙なもんじゃねぇか。甲類ってわけにゃいかねえけどよ。景気が良いったらありはしねえ。」
などと漏らすのもいた。言ってしまえば「名物」の様で或る。
キツネさんは旦那の月賦への不満や、呑み代の工面で首が回らなくなり、おでん屋の客であった女衒と話すようになり、遊女としての生涯を始めた。
「キツネさんは別嬪ですし、直ぐに売れっ子ですよ。」
と言いながら、女衒は脂汗を拭った。
ところが、キツネさんは「売れっ子」などにはならなかった。
客からは、「別嬪なんだが、だうも、ひざにある”青い大陸”が気色がわるい。」
と生来の”大陸”に因って、航海は先立って失敗に終わった。
キツネさんは遊女屋を依願退職し、静岡の田舎へと帰った。
しかし一度こぼれた水は返らず。画家の旦那は己の不潔から来る業病にかかった。
医者にかかろうにも、旦那は将来へ貯金を蓄えられるほど、裕福ではなかった。
とうとう、旦那は寝たきりになって了うと、キツネさんは狐憑きのやうに、狂乱し、騒ぎを起こした。「キツネおんなが来るぞ!」などとジャリたちが囃し立てた。
あまりの大事に見かねた酒屋の旦那が、
「金なんぞいらん。旦那さんが亡くなられた寡婦にまで取り立てるほど、ヤボじゃねえ。」
かく申して、身許引請人となった。
そうすると先ほどまでの非道は嘘であったかのやうに、すっかり淑やかに変った。
やがて、酒屋の旦那の養女となった。
旦那は「ツネさん」と親しんで呼び、悪口を吐いていた集落の人らも、
「ツネさんは本当は器量のよい娘さんだったのね。」
「ツネさん、旦那さんが亡くなったことなんか知らずに、好き勝手に評判して、申し訳ないわ。」などと語りはじめ、
「これ、ツネさんにね」とおでんを差し入れする者まであった。
酒屋の旦那はかく語りき。
「ツネさんは、近ごろみるみる善くなっているよ。」
「キの字がとれたみたいだね。」