醜女
橙灯のもとで、酔客がふたつ。
「きみは何であんな醜女にお熱なのさ。」
と、背広を丸めて腕にかけた、ロイド眼鏡の男。
「醜女だと?いいや、確かにさうかも知れぬ、しかしね、お前に何が分かる。」
学徒にも見える、ブロンド・ヘアの男。
戀愛沙汰であらうか。破廉恥きわまりない。
「きみ、あの子のなんなのさ。」
歌謡曲のフレーズで眼鏡は言う。
「茶化すんじゃあない。」
つっけんどんな態度で、ブロンドが返す。
「しかしまあ、お前の言う、”なんなのさ”とは、確かに的を射て居る。」
はやくちに赤ら顔は続ける。
「おれはあの女、まあお前に言わせたら醜女か、醜女の何でもない。」
俯いて、酒を呷る。
しかし、此のやうな痴話でさへ、聞き耳をたてて了うのが自らの性癖で或る。
野次馬根性とも云ふべきか。
「じゃあなんだ。戀人でもないきみが、なぜ東奔西走してまで、醜女に固執するのは、性慾のなせる業か。」
「ちがう。そんな不潔なものじゃない。」
語気を強める赤ら顔。
声の大きさに、脇役たちが振り向いて了うと、ブロンドは小さく咳ばらいをして、小さく成った。
「兎にも角にも、それほど猿のころの腦味噌ではない、おれは人間様なんだぞ。」
小さな声で、小さく成った男は呟いた。
「じゃあなんだ、金か?醜女から幾らか借りているのだらう。人間様なら、金だ。」
ロイドはブロンドに指で輪っかを作って見せた。
「金でもない、ただ、」
言葉に詰まる。
新聞記者のやうな性分が、「もう彼らから聴くことは何もない、」と判断した。
この先には、おそらく。あさましい銭子の貸し借りの言い訳だ。
「お前は、聖母アリーさまを知っているか?」
それは、ブロンドが上げた、まさしく鶴の一声で或った。
ふたたび、自分は小劇場の見物人へと戻って了う。
「きみ、当然だらう。そして話題を変へるにしても、へたくそ、だぞ。」
「違う、おれは何も、話題を変へやうと言った訳じゃない。」
先ほどまでと、形勢が入れ替わったかに思えた。
「聖母アリーさまは、どう云ふ方か、知っているだろう。」
「当然だ、えーと、母だから…」
ロイドはインテリジェンスを気取って居ながら、だうやら無知のやうだ。
ブロンドはため息をつくと、
「啓蒙してやらう、おれは何たってイエズスだからな。」
「怪しい信仰の誘いか、それなら帰るぞ。」
ロイドは無知を見透かされて、恥じらいを隠すやうに強い口調を取った。
「今更にがさないね、仮に勧誘だとしても、醜女だの言いだしたのはお前だろう。」
ロイドのほうが学徒の様を呈して、じっと唖黙った。
その様子に、教師は得意になって、
「聖母アリーはとこのめだなんだよ。」
「そ、それが醜女と何の関連がある。」
ロイドは一点突破を試みた。浅墓。
「とこのめであること。ヴァジニティが肝心かなめなんだよ。」
ロイドはあきれて、眉をしかめる。
「ヴァジニティがなんなんだ、また海外かぶれか。その頭、その通りだな。」
たしかにハリウッドの映画に出てきさうな、ブロンドヘア。ロイドは彼の頭の内実のことまでさへ皮肉った。無知、しかし世渡り上手な言い回し。たらい廻しに話題を変へやうとする。知らぬ存ぜぬ道へ出ると直ぐに方向転換をする、そのやうな「詰まらない」人間だと思うた。
「おれはあの子、あの子にヴァジニティを感じて居る、」
ブロンドは唐突に、阿呆のやうに変った。
ー阿呆と無知ー
公演の題名に遜色ない。失笑した。
「ヴァージンだからなんだ。床下手なんてまっぴら御免だよ」
と、下手側の演者。
「床の話ではない。もっと精神的で、繊細なものだ。」
だうやらブロンドは阿呆ではないやうに思うた。でまかせかと思った言葉に、一筋のハリガネが通って居る。主張、と呼ぶに相応しい。
ブロンドは続ける。
「通俗の女ってのは、だうにも不潔だ。やれ戀人だの、性友だの。常時発情期の汚らわしい生き物だ。」
ロイドは、
「しかしその汚らわしいケダモノに附いて行くのが、否、ケダモノたらしめる真実の元凶は男、そうではないのか。」
「たしかにお前の言う通りだ。ケダモノの男が、ヴァジニティを奪い、女をケダモノへと堕とす。」
ロイドは返言して、
「しかし其のやうな事を言い始めたら、きみだって、ケダモノの子孫だらう。」
「お前はおれが生まれた場面を見ていたか。」
と追訴されると、ロイドはまたもや唖に成った。
ブロンドの言葉に感じ入った。振り返ると、動物は交尾をして生まれる、なんてのは、洗腦なのやも知れぬ。誰かが言ったのを、くそ正直に信じて居るに過ぎない。本当の阿呆は、みずからやも知れぬ。
「それで、本題だ、」ブロンドの言葉。
遮るやうにロイド。
「分った。つまりきみはドラキュラだとでも言いたいのだな。」
ブロンドの熱に水を差すやうに放った。飽きて居るのが傍目にも丸わかりで或った。
「お前はせせこましい男だ。自分から風呂敷を広げておいて、さやうならの積もりか。」
熱はロイドの水程度ではさめず。
「いいか、ヴァジニティが如何に重要か。」
と言いかけて、唐突にエンジンが止まった。
見やると、一人のアベックが、睦まじく腕を絡ませて彼らの前を歩いた。
ブロンドは、きちがいのやうに、
「ちがう、絶対に、おれの好きな子が、ちがう、絶対に、ちがう、」
と言い続けた。
「お笑いだね。只の醜女にヴァジニティなぞと命名して、崇めて。」
だめ押しにロイドは微笑を浮かべて言うた。
「きみが好きだったのは、醜女ではなく、醜女の背後霊だったんだよ。きみは本当は、醜女を好きでなんか居なかった。見下して居た丈けだった。見ていて五臓六腑が痛かった。さやうなら。」
ロイドはきちがいブロンドの肩をわざとらしく優しく叩き、店を出て行った。
きちがいは児戯のごとく、安い涙を見せた。
わんわん、わんわん、と、ケダモノとも大根役者ともつかぬ様で、
ないていた。