騾黒愛(Lark roa)

larkroa@gmail.com

腦外科医Y

 Yは医者の家系に生まれた。

苦しむ患者を直す両親に尊敬を抱いた。医者に成らうと思うた。

Yは所謂お受験をして、偏差値の高い学校へ入った。

「副教科?そんな入試に必要ないもの、やらないよ」

そう言って副教科の授業が始まると、Yは決まって抜け出し、算数なぞの勉学をする。

それこそ、「教鞭を振るわれる」やうな事態だが、誰も振るわなかった。

否、振るえなかった。

 

教員は、Y無しでは何も出来なかった。

教員学校で専攻したのは、文学で或った。

そこで、方々の有名小説を読み、大きな知識を得た。

しかし、知恵の方の講義は取っていなかったのだ。

親の七光りで教員に成った。

 

Yは全国で一番の偏差値を鼻にかける高校へ合格する。

「絶対に大學へ行って、パパやママみたいに立派な医者になるぞ。」

と輪をかけて勉学に忙しなく勤しんだ。

 

全国模擬試験で、Yは1位を取った。

此の件以降、Yは次第に横柄になっていく。

学校では、

「お前、嫌い。」

と言った。彼の成績を畏れ尊敬した同級生が、追随して、

「お、おれも」「わたしも」

なぞと叫び、糾弾した。

被害を被った生徒はパニックを起こして、以来学校へ来なくなった。

 

Yは偏差値一番の大學へ進學した。

高校時分とは打って変わって、熱心に学業へ取り組んだ。

やがて、島から出て、本土で医者となった。

金の使い道はほとんど女だった。夜の街へ行き、豪遊する日々。

このころ、島の女と偶然にも出会い、結婚をした。

子どもを一人設けた。

「お医者さんの言うことはきちんと聞くんだよ。」

と、言って聞かせた。

 

しかし、女遊びにほとほと疲れ果てた妻は、黙って島へ帰って了う。

 

Yの息子は小学生のとき、咳が止まらなく成った。

 

Yの妻、つまり母親は彼を病院へ連れていった。

この島唯一の病院へ。

 

「どうもこれは、喉ではなく胃が惡いやうですな。胃薬を出します。」

「は、はぁ」

 

しかし、医者は噓を言っていた。出鱈目ではなく、熟考の上で。

 

とうぜん、直らない。医者へ文句を言いに、Yの妻が行く。

「どういうことです。一向に直りません。あなたどうかしてますわよ。」

ヒステリー。

「お医者さんの言うことはきちんと聞くんだよ。」

と、息子が諭す口調で言った。

ハッ、と我に返り、母親は急にしおらしくなって

「私ったら取り乱して、失礼いたしました。」と顔を赤らめた。

 

医者は落ち着いた様子で、事もなげに言う。

「あの薬はね、ゆっくりと効いていくのです。胃の病ってのはね、そんなに簡単に治るものじゃない。いいですか、服薬を続けてください。今月分です。また来月。」

「それと、容量はしっかりとお守りなすってくださいね。」

「はい、わかりました。」

と、患者はトボトボと帰っていく。

 

医者は金を見て、にやにやといやらしい微笑を浮かべる。

「フッ、この『しま』には俺しか医者がねえ。」

弟が応える。

「さすがの腕ですね、『あにき』、俺の『くすり』もなかなか上物でしょう。」

 

数日が経った。

医者の家にて、

何やら夜半に戸をしつこく叩くものだから、開けると、弟だった。

「なんだいお前かい、何の用だい。また新しい患者かい?」

「た、大変ですあにき。」と慌てた弟。

「どうしたってんだよ。」と兄貴。

「あの患者が、死んで了ったのです。」

「なんだ大慌てでそんな下らん事か、あれだけ容量を守れって言ってやったのによ。 母親を連れてきて、新たな患者にすりゃいいじゃねえかよ。」

 

 

一拍半の後、弟は息を整へて言った。

「しかしそれがですね。出張して居た父親が、医者だというのです。」

「何。それで。」

「子どもの死体を、研究の為に解剖したのです、つまり、『くすり』の成分も、、」

 

ふっ、と弟が倒れた。

「おい、おい。ああ、気がどうかしちまったんだ。あああ、俺たちゃ終わりだ。あいつが居ないと『くすり』が手に入らねぇ。ああ、どうしたらよいか、、」

いい歳の兄貴が、ワンワンと童のやうに泣く。

 

そこへ、Yが現れた。

「こんばんは。」

兄貴は、素っ頓狂な声をあげて、

「く、来るな、来るな。何でもする、見逃してくれないか。」

Yは倒れた弟を見て、

「おっと、それどころじゃあない、人が倒れてる。急いで病院に案内してくれ、」

「し、承知しましたっ。」

 

病院に着くと、Yと弟は直ぐに手術室へと入った。

「せ、先生、弟は直るんでしょうか。」あたふたする兄貴。

「なあに、多分ショックで倒れたんだろう、すぐに直せるさ。」

「ほ、本当ですか、ではお願いして、」

兄貴の言葉を遮り、Yは言うた。

「条件がある。お前のところの『くすり』、ひとつ残らず寄こせ。」

兄貴はもう奴隷だった。弟を質に取られてはもう勝負あり、だ。

兄貴は金庫に仕舞って置いた『くすり』を総てYに手渡した。

「おねがいします。おねがいいたします。」と添え書きまでつけて。

 

Yは手術に取り掛かった。

電気ショックで弟の心臓を直した。

「はい、直ったよ、それじゃ。」

Yは疾く帰っていった。

 

兄貴は今後のスキームを練らねばならぬ、と考えた。

島を出るほかない、弟がいればほかの『しま』でもやっていける。

弟が目を開けた。

「おお。本当に直った。心配したぞ、」と嬉々として弟に言う。

「あ、あーーあ、あああ、」

そういえばY先生は言っていた。時差ボケのやうなものが起こるけれど、段々よくなるよ、と。

 

Yは現在、腦外科の名医として知られている。

 

なにやら、何度も通う患者で常にいっぱいなんだそうな。

 

脳外科医Y

 Yは医者の家系に生まれた。

苦しむ患者を直す両親に尊敬を抱いた。医者に成らうと思うた。

Yは所謂お受験をして、偏差値の高い学校へ入った。

「副教科?そんな入試に必要ないもの、やらないよ」

そう言って副教科の授業が始まると、Yは決まって抜け出し、算数なぞの勉学をする。

それこそ、「教鞭を振るわれる」やうな事態だが、誰も振るわなかった。

否、振るえなかった。

 

教員は、Y無しでは何も出来なかった。

教員学校で専攻したのは、文学で或った。

そこで、方々の有名小説を読み、大きな知識を得た。

しかし、知恵の方の講義は取っていなかったのだ。

親の七光りで教員に成った。

 

Yは全国で一番の偏差値を鼻にかける高校へ合格する。

「絶対に大學へ行って、パパやママみたいに立派な医者になるぞ。」

と輪をかけて勉学に忙しなく勤しんだ。

 

全国模擬試験で、Yは1位を取った。

此の件以降、Yは次第に横柄になっていく。

学校では、

「お前、嫌い。」

と言った。彼の成績を畏れ尊敬した同級生が、追随して、

「お、おれも」「わたしも」

なぞと叫び、糾弾した。

被害を被った生徒はパニックを起こして、以来学校へ来なくなった。

 

Yは偏差値一番の大學へ進學した。

高校時分とは打って変わって、熱心に学業へ取り組んだ。

やがて、島から出て、本土で医者となった。

金の使い道はほとんど女だった。夜の街へ行き、豪遊する日々。

このころ、島の女と偶然にも出会い、結婚をした。

子どもを一人設けた。

「お医者さんの言うことはきちんと聞くんだよ。」

と、言って聞かせた。

 

しかし、女遊びにほとほと疲れ果てた妻は、黙って島へ帰って了う。

 

Yの息子は小学生のとき、咳が止まらなく成った。

 

Yの妻、つまり母親は彼を病院へ連れていった。

この島唯一の病院へ。

 

「どうもこれは、喉ではなく胃が惡いやうですな。胃薬を出します。」

「は、はぁ」

 

しかし、医者は噓を言っていた。出鱈目ではなく、熟考の上で。

 

とうぜん、直らない。医者へ文句を言いに、Yの妻が行く。

「どういうことです。一向に直りません。あなたどうかしてますわよ。」

ヒステリー。

「お医者さんの言うことはきちんと聞くんだよ。」

と、息子が諭す口調で言った。

ハッ、と我に返り、母親は急にしおらしくなって

「私ったら取り乱して、失礼いたしました。」と顔を赤らめた。

 

医者は落ち着いた様子で、事もなげに言う。

「あの薬はね、ゆっくりと効いていくのです。胃の病ってのはね、そんなに簡単に治るものじゃない。いいですか、服薬を続けてください。今月分です。また来月。」

「それと、容量はしっかりとお守りなすってくださいね。」

「はい、わかりました。」

と、患者はトボトボと帰っていく。

 

医者は金を見て、にやにやといやらしい微笑を浮かべる。

「フッ、この『しま』には俺しか医者がねえ。」

弟が応える。

「さすがの腕ですね、『あにき』、俺の『くすり』もなかなか上物でしょう。」

 

数日が経った。

医者の家にて、

何やら夜半に戸をしつこく叩くものだから、開けると、弟だった。

「なんだいお前かい、何の用だい。また新しい患者かい?」

「た、大変ですあにき。」と慌てた弟。

「どうしたってんだよ。」と兄貴。

「あの患者が、死んで了ったのです。」

「なんだ大慌てでそんな下らん事か、あれだけ容量を守れって言ってやったのによ。 母親を連れてきて、新たな患者にすりゃいいじゃねえかよ。」

 

 

一拍半の後、弟は息を整へて言った。

「しかしそれがですね。出張して居た父親が、医者だというのです。」

「何。それで。」

「子どもの死体を、研究の為に解剖したのです、つまり、『くすり』の成分も、、」

 

ふっ、と弟が倒れた。

「おい、おい。ああ、気がどうかしちまったんだ。あああ、俺たちゃ終わりだ。あいつが居ないと『くすり』が手に入らねぇ。ああ、どうしたらよいか、、」

いい歳の兄貴が、ワンワンと童のやうに泣く。

 

そこへ、Yが現れた。

「こんばんは。」

兄貴は、素っ頓狂な声をあげて、

「く、来るな、来るな。何でもする、見逃してくれないか。」

Yは倒れた弟を見て、

「おっと、それどころじゃあない、人が倒れてる。急いで病院に案内してくれ、」

「し、承知しましたっ。」

 

病院に着くと、Yと弟は直ぐに手術室へと入った。

「せ、先生、弟は直るんでしょうか。」あたふたする兄貴。

「なあに、多分ショックで倒れたんだろう、すぐに直せるさ。」

「ほ、本当ですか、ではお願いして、」

兄貴の言葉を遮り、Yは言うた。

「条件がある。お前のところの『くすり』、ひとつ残らず寄こせ。」

兄貴はもう奴隷だった。弟を質に取られてはもう勝負あり、だ。

兄貴は金庫に仕舞って置いた『くすり』を総てYに手渡した。

「おねがいします。おねがいいたします。」と添え書きまでつけて。

 

Yは手術に取り掛かった。

電気ショックで弟の心臓を直した。

「はい、直ったよ、それじゃ。」

Yは疾く帰っていった。

 

兄貴は今後のスキームを練らねばならぬ、と考えた。

島を出るほかない、弟がいればほかの『しま』でもやっていける。

弟が目を開けた。

「おお。本当に直った。心配したぞ、」と嬉々として弟に言う。

「あ、あーーあ、あああ、」

そういえばY先生は言っていた。時差ボケのやうなものが起こるけれど、段々よくなるよ、と。

 

Yは現在、腦外科の名医として知られている。

 

なにやら、何度も通う患者で常にいっぱいなんだそうな。

 

醜女

 橙灯のもとで、酔客がふたつ。

「きみは何であんな醜女にお熱なのさ。」

と、背広を丸めて腕にかけた、ロイド眼鏡の男。

「醜女だと?いいや、確かにさうかも知れぬ、しかしね、お前に何が分かる。」

学徒にも見える、ブロンド・ヘアの男。

 

戀愛沙汰であらうか。破廉恥きわまりない。

「きみ、あの子のなんなのさ。」

謡曲のフレーズで眼鏡は言う。

「茶化すんじゃあない。」

つっけんどんな態度で、ブロンドが返す。

「しかしまあ、お前の言う、”なんなのさ”とは、確かに的を射て居る。」

はやくちに赤ら顔は続ける。

「おれはあの女、まあお前に言わせたら醜女か、醜女の何でもない。」

俯いて、酒を呷る。

 

しかし、此のやうな痴話でさへ、聞き耳をたてて了うのが自らの性癖で或る。

野次馬根性とも云ふべきか。

「じゃあなんだ。戀人でもないきみが、なぜ東奔西走してまで、醜女に固執するのは、性慾のなせる業か。」

「ちがう。そんな不潔なものじゃない。」

語気を強める赤ら顔。

 

声の大きさに、脇役たちが振り向いて了うと、ブロンドは小さく咳ばらいをして、小さく成った。

「兎にも角にも、それほど猿のころの腦味噌ではない、おれは人間様なんだぞ。」

小さな声で、小さく成った男は呟いた。

「じゃあなんだ、金か?醜女から幾らか借りているのだらう。人間様なら、金だ。」

ロイドはブロンドに指で輪っかを作って見せた。

「金でもない、ただ、」

言葉に詰まる。

 

新聞記者のやうな性分が、「もう彼らから聴くことは何もない、」と判断した。

この先には、おそらく。あさましい銭子の貸し借りの言い訳だ。

 

「お前は、聖母アリーさまを知っているか?」

 

それは、ブロンドが上げた、まさしく鶴の一声で或った。

ふたたび、自分は小劇場の見物人へと戻って了う。

「きみ、当然だらう。そして話題を変へるにしても、へたくそ、だぞ。」

「違う、おれは何も、話題を変へやうと言った訳じゃない。」

先ほどまでと、形勢が入れ替わったかに思えた。

「聖母アリーさまは、どう云ふ方か、知っているだろう。」

「当然だ、えーと、母だから…」

ロイドはインテリジェンスを気取って居ながら、だうやら無知のやうだ。

ブロンドはため息をつくと、

「啓蒙してやらう、おれは何たってイエズスだからな。」

「怪しい信仰の誘いか、それなら帰るぞ。」

ロイドは無知を見透かされて、恥じらいを隠すやうに強い口調を取った。

 

「今更にがさないね、仮に勧誘だとしても、醜女だの言いだしたのはお前だろう。」

ロイドのほうが学徒の様を呈して、じっと唖黙った。

その様子に、教師は得意になって、

「聖母アリーはとこのめだなんだよ。」

「そ、それが醜女と何の関連がある。」

ロイドは一点突破を試みた。浅墓。

 

「とこのめであること。ヴァジニティが肝心かなめなんだよ。」

ロイドはあきれて、眉をしかめる。

「ヴァジニティがなんなんだ、また海外かぶれか。その頭、その通りだな。」

たしかにハリウッドの映画に出てきさうな、ブロンドヘア。ロイドは彼の頭の内実のことまでさへ皮肉った。無知、しかし世渡り上手な言い回し。たらい廻しに話題を変へやうとする。知らぬ存ぜぬ道へ出ると直ぐに方向転換をする、そのやうな「詰まらない」人間だと思うた。

 

「おれはあの子、あの子にヴァジニティを感じて居る、」

ブロンドは唐突に、阿呆のやうに変った。

ー阿呆と無知ー

公演の題名に遜色ない。失笑した。

 

「ヴァージンだからなんだ。床下手なんてまっぴら御免だよ」

と、下手側の演者。

「床の話ではない。もっと精神的で、繊細なものだ。」

だうやらブロンドは阿呆ではないやうに思うた。でまかせかと思った言葉に、一筋のハリガネが通って居る。主張、と呼ぶに相応しい。

ブロンドは続ける。

「通俗の女ってのは、だうにも不潔だ。やれ戀人だの、性友だの。常時発情期の汚らわしい生き物だ。」

ロイドは、

「しかしその汚らわしいケダモノに附いて行くのが、否、ケダモノたらしめる真実の元凶は男、そうではないのか。」

「たしかにお前の言う通りだ。ケダモノの男が、ヴァジニティを奪い、女をケダモノへと堕とす。」

ロイドは返言して、

「しかし其のやうな事を言い始めたら、きみだって、ケダモノの子孫だらう。」

「お前はおれが生まれた場面を見ていたか。」

と追訴されると、ロイドはまたもや唖に成った。

 

ブロンドの言葉に感じ入った。振り返ると、動物は交尾をして生まれる、なんてのは、洗腦なのやも知れぬ。誰かが言ったのを、くそ正直に信じて居るに過ぎない。本当の阿呆は、みずからやも知れぬ。

 

「それで、本題だ、」ブロンドの言葉。

遮るやうにロイド。

「分った。つまりきみはドラキュラだとでも言いたいのだな。」

ブロンドの熱に水を差すやうに放った。飽きて居るのが傍目にも丸わかりで或った。

「お前はせせこましい男だ。自分から風呂敷を広げておいて、さやうならの積もりか。」

熱はロイドの水程度ではさめず。

「いいか、ヴァジニティが如何に重要か。」

と言いかけて、唐突にエンジンが止まった。

 

見やると、一人のアベックが、睦まじく腕を絡ませて彼らの前を歩いた。

ブロンドは、きちがいのやうに、

「ちがう、絶対に、おれの好きな子が、ちがう、絶対に、ちがう、」

と言い続けた。

「お笑いだね。只の醜女にヴァジニティなぞと命名して、崇めて。」

だめ押しにロイドは微笑を浮かべて言うた。

「きみが好きだったのは、醜女ではなく、醜女の背後霊だったんだよ。きみは本当は、醜女を好きでなんか居なかった。見下して居た丈けだった。見ていて五臓六腑が痛かった。さやうなら。」

ロイドはきちがいブロンドの肩をわざとらしく優しく叩き、店を出て行った。

きちがいは児戯のごとく、安い涙を見せた。

わんわん、わんわん、と、ケダモノとも大根役者ともつかぬ様で、

 

ないていた。

 

 

ストレスの名医

 男は、この頃腹の具合の良くないのを気にして、医者にかかることにした。

なんでも、噂では最高の名医なぞと称されていると云ふ。

 

想像よりも若い、青白いツラをした小僧が、件の医者で或った。

小僧は体躯に見合わぬ大きな椅子に、ちょこん、と腰掛けて居る。

小僧は言う。

「貴方の胃痛は、ストレスが原因かも知れません。」

男は落胆した。この頃、いやに”ストレス”なぞと聞く。

男は巷に蔓延るストレスと云ふ言葉に、オカルトめいた物を感じていた。

「はぁ、ストレスですか、でしたら、治せぬのですね、」

荷物を詰めて外套を羽織る男の背後に声がした。

 

「ストレス、治しましょうか?」

 

「ストレスは、治るのですか?」男は、素っ頓狂な声で訊き返した。

「はい。」

男は思った。この小僧は、自分を騙して銭を掠めとらうとして居るのでは、と。

「代金は、無償でいたします。」

啞然とした。詐欺師だとしても、ここでギャンブルを打って了おうと決めた。

「でしたら、お願い致します。すぐにでも。」

 

「始めます。」

手術台の脇で、小僧が話す。

「麻酔をしますので」と、説明がなされた。

だうやらストレスの手術は大変痛みを伴うやうで、勧められるまま男は麻酔を頼んだ。

 

手術が終わった。

「どうです?胃痛の具合は」

尋ねる小僧の顔、笑った男の顔、

否、”男であったもの”が、ジャム塗れた食パンの上で、微笑を浮かべていた。

ロマンチシズム

 

「まったく、お前のロマンチシズム趣味にはあきれた。伊達男でも無いくせに、いちいちクサい芝居ばかり打ちやがる。第一、メロドラマのやうなに演じてみても、あんなもんは裏に興が醒めるやうな台本があって、そこに則ってただ役をこなしている丈けなんだから。」

「そうだ、張りぼてなんだよ。」

言い終えて、グラスの酎杯が減ったことに目がゆく。

おい。お前、台所にまだ有ったろう、たしかあの、海外のセレヴみたいな瀟洒な酒が。

 

ロマン主義者は殊更大げさに、だんまりと酒をグラスに注いだ。

「おうおう、さすが役者さんだね、三枚目だが演技だけなら食っていけそうだな。」

と軽口を叩くと、既に真っ赤なツラに赤を塗り重ねて悔しそうに唖黙るのがおもしろく、迎撃船を出港させてやる。

「貴男も私も、ロマン主義なんかにかぶれる齢じゃないでしょう、そろそろその狂信仰をタンスにでも仕舞って了ったらいいんじゃないのかしら。」

わざと女形のやうに、刺戟する。

 

赤ダルマは髭だらけの不潔な口をついに開いた。

 

「お前こそ、そろそろ仕舞い時なんじゃないのか。」

達磨法師の人物画を思はせるやうな、烈しい口調に、思わずグラスを置いた。

「お前がロマンチシズムを好まないのは、なぜだと思う?」

 

一寸間を置いてから、ダルマへ言葉を投げつける。

「決まっている。メロドラマのやうなファンタジィに幻想を抱くのは、現実に飽き飽きして居て、つまらないものだと烙印を押している人間が、その軽薄さを悟られないやうに、大仰な世界を創り上げて、そこを愛撫することで快楽を得て、”ロマンチスト”なぞ気取った名刺を差し出して、女に『あらステキ、芸術の分かる方なのね。』と偉ぶる為に創られたものの奴隷で在るにも拘わらず、偉そうに物知り顔で振る舞うのが気にくわない。」

 

赤ダルマは一寸の間も置かず、弁を始めた。さも台本があるかのやうに、流暢に。

「お前はロマンチシズムは現実の道をそれて、その軌跡が獣みちに成ってメロドラマが成立する、と言った。お前の軸は現実に在る。言葉を借りるならば現実の奴隷だ。ロマン主義をロマンチシズムと呼ぶのなら、お前はさしずめリアリズムだろう。現実で生きて居て、現実の喜怒哀楽だけで満足。満ち足りることを覚える。大変ご立派な倹約家だ。偉ぶる為、なぞと云うて居たが、現実で偉ぶれないフーテンが、偉ぶることに何の問題がある。女に語れるものなぞ何も無いやうな空洞人間が、ロマンチシズムを魅せる。

現実ではお前は多少威張られるやうな良点が有るのだろうが、無い人間は何を語る?騙る以外に道は無いだろう。」

 

強くなるダルマの語気に臆せず、

とはいかず。

私はすっかり青ナスのやうに、へなへなと萎れて、ただただダルマを見詰めて居た。

ダルマはさしづめ選挙の当選演説の、脂こい顔に、侮蔑の笑みを浮かべて居た。

 

私は敗北の美酒をぐいと呷って、呻いた。

「今日はもう遅い、」

と言う先か後か、ダルマが「もう寝るか」、と演劇口調で言った。

すべてを見通して、夜通し論なぞ要らぬと、八百長試合でレフェリーがスリーカウントを取ったときのやうな、贋物の笑みを浮かべながら。

このまま北げるのは癪に障るから、何かカウンターを、と思うた。

 

翌日、花屋に行った。ロマン主義の社会では景気が良いらしかった。

取り残されたやうな、否、リアリズムを忘れてはならぬ。偽よりも真だ。

丁寧に包装をして貰い、例のロマンだるまの元へ赴いた。

 

ロマンだるまは出迎えた、まるで演劇なぞとはかけ離れたやうな、工員みたいな汚らわしい格好で。ふと目をやると蝶ネクタイとスーツなぞが掛けてある。キセルみたいな野郎だ、と思うた。見える所のみ真鍮で、内実は只のつまらない木の空洞。

 

レヴィアンローズだとか何とかの、たいそうな名前の花を、メロドラマのシイン様々、膝を着いて差し出した。

ロマンだるまは昨日が偽であったかのやうに、

「昨晩は、物言いが過ぎた。すまない。お前も、ロマンチシズムがわかる人間になったか。先日の喜劇なんだがね、主役が、、

 

なぞと語り始めた。愚かなダルマだ。

同胞を捜して、見つけて語り、朝になる。このダルマはそうして、老いるのだらう。

羅宇の腐りに気付かれないやうに、偽の布で拭い、その毎、冷や汗を拭い続けるのだ。

ロマンチシズム

 

「まったく、お前のロマンチシズム趣味にはあきれた。伊達男でも無いくせに、いちいちクサい芝居ばかり打ちやがる。第一、メロドラマのやうなに演じてみても、あんなもんは裏に興が醒めるやうな台本があって、そこに則ってただ役をこなしている丈けなんだから。」

「そうだ、張りぼてなんだよ。」

言い終えて、グラスの酎杯が減ったことに目がゆく。

おい。お前、台所にまだ有ったろう、たしかあの、海外のセレヴみたいな瀟洒な酒が。

 

ロマン主義者は殊更大げさに、だんまりと酒をグラスに注いだ。

「おうおう、さすが役者さんだね、三枚目だが演技だけなら食っていけそうだな。」

と軽口を叩くと、既に真っ赤なツラに赤を塗り重ねて悔しそうに唖黙るのがおもしろく、迎撃船を出港させてやる。

「貴男も私も、ロマン主義なんかにかぶれる齢じゃないでしょう、そろそろその狂信仰をタンスにでも仕舞って了ったらいいんじゃないのかしら。」

わざと女形のやうに、刺戟する。

 

赤ダルマは髭だらけの不潔な口をついに開いた。

 

「お前こそ、そろそろ仕舞い時なんじゃないのか。」

達磨法師の人物画を思はせるやうな、烈しい口調に、思わずグラスを置いた。

「お前がロマンチシズムを好まないのは、なぜだと思う?」

 

一寸間を置いてから、ダルマへ言葉を投げつける。

「決まっている。メロドラマのやうなファンタジィに幻想を抱くのは、現実に飽き飽きして居て、つまらないものだと烙印を押している人間が、その軽薄さを悟られないやうに、大仰な世界を創り上げて、そこを愛撫することで快楽を得て、”ロマンチスト”なぞ気取った名刺を差し出して、女に『あらステキ、芸術の分かる方なのね。』と偉ぶる為に創られたものの奴隷で在るにも拘わらず、偉そうに物知り顔で振る舞うのが気にくわない。」

 

赤ダルマは一寸の間も置かず、弁を始めた。さも台本があるかのやうに、流暢に。

「お前はロマンチシズムは現実の道をそれて、その軌跡が獣みちに成ってメロドラマが成立する、と言った。お前の軸は現実に在る。言葉を借りるならば現実の奴隷だ。ロマン主義をロマンチシズムと呼ぶのなら、お前はさしずめリアリズムだろう。現実で生きて居て、現実の喜怒哀楽だけで満足。満ち足りることを覚える。大変ご立派な倹約家だ。偉ぶる為、なぞと云うて居たが、現実で偉ぶれないフーテンが、偉ぶることに何の問題がある。女に語れるものなぞ何も無いやうな空洞人間が、ロマンチシズムを魅せる。

現実ではお前は多少威張られるやうな良点が有るのだろうが、無い人間は何を語る?騙る以外に道は無いだろう。」

 

強くなるダルマの語気に臆せず、

とはいかず。

私はすっかり青ナスのやうに、へなへなと萎れて、ただただダルマを見詰めて居た。

ダルマはさしづめ選挙の当選演説の、脂こい顔に、侮蔑の笑みを浮かべて居た。

 

私は敗北の美酒をぐいと呷って、呻いた。

「今日はもう遅い、」

と言う先か後か、ダルマが「もう寝るか」、と演劇口調で言った。

すべてを見通して、夜通し論なぞ要らぬと、八百長試合でレフェリーがスリーカウントを取ったときのやうな、贋物の笑みを浮かべながら。

このまま北げるのは癪に障るから、何かカウンターを、と思うた。

 

翌日、花屋に行った。ロマン主義の社会では景気が良いらしかった。

取り残されたやうな、否、リアリズムを忘れてはならぬ。偽よりも真だ。

丁寧に包装をして貰い、例のロマンだるまの元へ赴いた。

 

ロマンだるまは出迎えた、まるで演劇なぞとはかけ離れたやうな、工員みたいな汚らわしい格好で。ふと目をやると蝶ネクタイとスーツなぞが掛けてある。キセルみたいな野郎だ、と思うた。見える所のみ真鍮で、内実は只のつまらない木の空洞。

 

レヴィアンローズだとか何とかの、たいそうな名前の花を、メロドラマのシイン様々、膝を着いて差し出した。

ロマンだるまは昨日が偽であったかのやうに、

「昨晩は、物言いが過ぎた。すまない。お前も、ロマンチシズムがわかる人間になったか。先日の喜劇なんだがね、主役が、、

 

なぞと語り始めた。愚かなダルマだ。

同胞を捜して、見つけて語り、朝になる。このダルマはそうして、老いるのだらう。

羅宇の腐りに気付かれないやうに、偽の布で拭い、その毎、冷や汗を拭い続けるのだ。

ミレーちゃん

「ミレーちゃん」が、母のあだ名だった。

17歳で私を産んだ。付き合っていた人とは結婚出来なかった。

その人が何をやっているかは知らない、知る必要もない。

 

3歳になるころに、繫華街の安物件に越した。

嬌声や罵声の喧騒を、未だに色濃く思い出せる。

 

私のママはミレーちゃんだけではなかった。ユコちゃん、レイさん。

みんなみんな、私の大切なママだ。

 

ミレーちゃんが休みの日に、出かけるのが大好きだった。

夜とは違う街みたいに、やわらかい声でいっぱいだった。

 

ミレーちゃんは、高校に行ってほしい、と言ったけれど、行かないことに決めた。

働ける年齢になったら、これ以上ミレーちゃんに苦労をかけられない、と思ってのこと

 

右も左も分からないまま、ミレーちゃんのように綺麗になりたくて、

でもまだお金は全然足りなくて、働いた。

絶対一人暮らしをする。そうしてミレーちゃんみたいに、強い人になるんだ。

 

2年が経ったころ、知らない人から電話がかかってきた。

 

ミレーちゃんは小さな箱になった。

黒い服を着た人達が、「あの売女、私の男取ったのよ」「結婚詐欺やってたって噂」

「あいつは一族の恥だった。これで堂々と出歩ける」

 

嫌になって家に帰ってテレビをつけると、ミレーちゃんが笑っていた。

「30代女性殺害 痴情のもつれか」「結婚詐欺師だったのでは」

と、ネクタイを付けた大人が、話していた。

ミレーちゃんは、後ろの画面で、ずっとこっちを見て笑っている。

ミレーちゃんは、何も言わない。

 

次の朝、仕事へ行こうと玄関を開けると、マイクを持った人達に囲まれた。

「ご家族の方ですか?お辛いところ申し訳ありませんが、少しお話を…。」

 

急に息が苦しくなって、声がだんだん遠くなった。

気が付くと誰も居なくなっていた。

ミレーちゃんだけが寄り添ってくれた。